2009年が始まった。今年の正月も空は青く晴れ上がり、真っ白な富士山が神々しく美しい。だが、気分は鬱々として重く、まだ正月の新聞すら読んでいない。どうせ大したことは書いてないだろうと思うからである。パレスチナ情勢が気にかかるが、刻々のおおよそはテレビで伝わり、詳細はネットの英字報道を追いかければ掴める。思い出せば、昨年も正月の朝日新聞はまともに読まなかった。企業の広告特集も含めて、それを楽しみに読んでいたのは大昔の80年代のことであり、次第に内容が面白くなくなり、興味を失い、あのぶ厚さが余計なものに感じられるようになって行った。年をとって、世間への関心が薄れているということもあるだろうけれど、新聞に対する疎外感や不信感が強くなり、めでたい気分で正月の新聞を開けなくなった自分がいる。記事を書いている記者の感覚と私の気分との距離は年々開く一方で、朝日の記者が記事の行間に漂わせる中身のないエリート意識と社会的無知には辟易とさせられる。
元日の晩早々、NHKに見たくない鬱陶しい顔が出ていて、正月の気分を毒されることになった。正月のNHKくらい清興な放送を国民に提供して欲しかったが、画面に登場したのは新自由主義の悪魔である竹中平蔵の顔だった。番組を制作司会したのは三宅民夫で、この親米右翼で新自由主義に偏った男が未だにNHKの番組編成を牛耳っている。経営委員長の交代で報道に変化があるだろうと期待したが、新年早々に出てきたものは全く逆の中身で失望させられた。元日夜のNHKスペシャル「
激論2009」は、朝生のNHK版のような討論番組で、竹中平蔵、岡本行夫、八代尚宏、金子勝、山口二郎、斎藤貴男、勝間和代の7名が出演していた。この顔ぶれを見ると、激烈な対決が予想されたのだが、討論を主導していたのは竹中平蔵の強弁で、竹中平蔵が自由自在に喋りまくって「改革」の正当性をまくしたて、討論の進行全体を制圧していた。それが三宅民夫の狙いであり、要するにNHKを使った新自由主義側の巻き返しである。
反論する側は、相変わらず竹中平蔵の詭弁とレトリックに翻弄されていた。竹中平蔵はディベートの技術の使い手で、討論の場では、必ずスリカエとゴマカシで応酬して不利な立場から反転を仕掛けてくる。昨夜も同じで、非正規労働と格差社会の話題になり、市場原理主義の問題を攻め込まれると、「現実問題をどうしなければいけないかを論議しなければいけない」とか、「犯人探しでなく」という論法で巧妙に争点をスリカエていた。これはディベート戦術における詭弁のテクニックで、擬似的な説得力を一瞬の目くらましで演出する手法である。実際には、現実問題が惹き起こされたのは過去の政策があったからだ。非正規労働の割合が増え、派遣切りが横行する残酷な格差社会が現実化したのは、小泉竹中の構造改革路線によって、労働法制の規制緩和が法制化されて行ったためである。大事なのは、何でこうなったのか、誰の政策によってこうなったのかであり、その政策的原因を解明することによって、初めて現実問題にどう対処するかという政策方針が与えられる。
原因究明こそが重要で、過去の政策の失敗が質されなければならず、その責任が問われなければならない。竹中平蔵が「犯人探しが問題ではなく」と言うのは、自分が犯人だからだ。そのことを、金子勝と山口二郎と斎藤貴男は正面から峻烈に問い詰めるべきで、誰が派遣労働の規制緩和をやったのか、政策責任者は誰なのかと、手を緩めずに執拗に竹中平蔵に迫るべきだった。3人とも異常にお行儀がよく、竹中平蔵が得意になって自己正当化の弁に努めても、誰も制止と糾弾の手を入れようとしない。黙って聞いているだけだった。政策決定の事実過程の部分で、竹中平蔵があからさまな嘘を言って逃げたときだけ、金子勝が具体的な反論を刺していたが、斎藤貴男と山口二郎は全く有効な論戦が展開できず、竹中平蔵に睨まれたまま屈服を余儀なくなせられていた。実に情けない。竹中平蔵が「現実問題を」と目先を変えて逃げようとしているのだから、論破する側は、正面から本質論で一撃を入れればいいのである。「誰のせいでこうなったのだ」と語気を強くして真正面から包囲すればよいのだ。
ディベートの小技で議論を操縦してくる相手に対しては、本質論の一撃と一点波状攻撃こそが最大に有効な戦略となる。逃げさせないことだ。格差社会を生み出した政策責任者が竹中平蔵である事実を暴露することだ。この事実は、現在ではすでに国民の一般的常識である。であれば、社会常識となっている事実を、そのまま本人の前で遠慮せずに言ってやればよい。テレビの前で憎悪に燃えて切歯扼腕していた視聴者は多かったはずだ。自分の思いを斎藤貴男や山口二郎に代弁して欲しかった人間は多かったはずだ。ストレートに竹中平蔵を批判する熱弁を期待していたはずだ。相手が議論にディベートの詐術を応用してきた場合、それはすでに純粋な議論ではなく政治である。政治に対しては政治で切り返さなくてはならず、その最も有効な方法は本質論の一撃に他ならない。一撃を急所に的中させれば、どのように竹中平蔵が言い逃れの術を駆使しても、視聴者はその本質論の関心から討論を見守る。外野から応援の声が上がる。「あなたが小泉改革の政策責任者じゃないですか」と直截に責任論を叩きつければよかった。
無論、竹中平蔵と対決する論者は、単に本質論の一撃を入れるだけでなく、その後の論戦展開をカバーする政策論と制度論の知識を持っていなければならない。昨夜の討論を見ていると、山口二郎と斎藤貴男は十分な知識を持っていないのである。だから、竹中平蔵に政策論で応酬されると、舌鋒を収めておとなしく沈黙してしまう。竹中平蔵に有効に反論し、テレビの前の視聴者を説得するためには、新自由主義のレジームの概念がなければいけない。個別的に労働法制の問題だけ切り込んでも、すぐに竹中平蔵に論点を逸らされる。新自由主義のレジームは、労働法制と資本法制と税制と社会保障の四分野で構成される。それぞれの分野で「改革」の名の下に法制度が改訂されてきたのであり、資本の利益を最大にして、労働者を利益を最小にするシステムが作り上げられてきたのである。これらの法制改訂史が理論武装されていなければならない。実際のところ、ネットのBLOG界隈を見ても分かるとおり、この労働法制・資本法制・税制・社会保障の具体論については、共産党系の人間が赤旗新聞の教育によって知識を持っている。
山口二郎が竹中平蔵に反論できなかったのは、具体的な法制度や論点に関わる数字の情報が頭の中に入ってなかったからだ。新自由主義のレジームの概念把握が意識として弱く、十分な認識になってないからであり、これまで、そのような認識や知識がなくても、単に民主党を応援して政権交代を唱えるだけのイージーな政局評論で、政治学者として論壇で商売できているからである。現実に対する緊張感が弱く、新自由主義をめぐる論戦でどのような知識が必要なのかについての理解が乏しい。それと、気になった点だが、山口二郎の自己紹介のテロップで、「社会民主主義の方向を支持」というような表現があった。この自己紹介には戸惑いを覚える。山口二郎が社会民主主義の方向を支持するのなら、支持政党を社民党か共産党に切り替えるべきである。周知のとおり、
山口二郎は民主党のイデオローグで、この事実も国民的常識の一つと言えるだろう。山口二郎の政策的立場は、菅直人と同じ「第三の道」であり、それは「新自由主義でも社会民主主義でもない第三の道」であり、英労働党のブレアの路線である。民主党は社会民主主義の政党ではない。
日本の民主党は、筋金入りの新自由主義者と元社会民主主義者の寄せ集めの政党であり、政党としての理念がなく、掲げる看板に困った菅直人が、都合よくレトリック的にブレアの「第三の道」を借用した。だが、そのレトリックの説得力も失せ、今では単に「政権交代」しか看板がない。もし、山口二郎が「第三の道」路線を放棄して、社会民主主義に立場を転換すると言うのなら、然るべく自己批判の手続きの上で転向を表明すべきだろう。時代の風向きに機敏に応じて、泥縄式に政治的立場を変えるというのは、政治学者としての良識に欠ける行為である。また、昨夜の討論を見ながら、あらためて確信を覚えたが、「
改革」という日本語に対してイデオロギー論的な緊張感を持たないかぎり、反論者は必ず竹中平蔵のディベートの術中に嵌る。金子勝もそうだった。金子勝は山口二郎よりも政策プロパーの知識があり、竹中平蔵の嘘を見破ることはできて、簡単に沈黙させられたりはしないのだが、「改革」の言語を持ち出されると、そこで竹中平蔵の論理に靡いて批判の舌鋒が一気に弱くなる。「改革」の擬似的共同体に足場を取り込まれて、批判者の立場を見失ってしまう。
つまり、「改革では同じではないか」というロジックに擬似的にシンクロさせられて、反論者としての批判を際立たせられなくなるのである。単純化するなら、「改革が必要だ」と竹中平蔵が言えば、「そうだ」と肯定的に応じる論理的立場に融合させられ、敵は竹中平蔵ではなく、自民党政権になってしまう結果に凝固するのである。金子勝に必要なのは言語とイデオロギーへの視角であり、「
改革」という政治言語の暴露と揚棄の課題である。単に経済学者として十分な知識を持っているだけでは竹中平蔵は論破できない。新自由主義のイデオロギーの言説を解体解剖する能力が必要であり、竹中平蔵の口から飛び出る詭弁とレトリックをイデオロギーのパーツとして把握し、それに対して瞬時に反撃して、相手を無力化し武装解除する理論的能力が求められるのである。テレビの前で視聴者に説明すべきは、「改革」という言葉の意味であり、それが日本語の本来の意味から離れて、新自由主義の経済政策の総体を意味し、それを美化正当化する装置として用いられている真実だった。言語の操作という根本的問題を暴露しなければ、竹中平蔵のディベートに対する反撃は決してワークしない。
世の中の現状から言えば、竹中平蔵の立場など本来あるはずもなく、非難と罵声だけ受けて終わりのはずなのに、こうやってマスコミで堂々と勇姿を見せて復権の足場を固めて行く。山口二郎と斎藤貴男は何をやっているのだ。