▲東京音頭のレコード・ジャケット。
賑(はな)やかな「出だし」と、軽快なリズムの前奏に導かれて、「踊り踊るなぁら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ」という歌詞にはじまる「東京音頭」(作詞・西条八十、作曲・中山晋平)は、花柳界の芸娼妓であった小唄勝太郎(こうたかつたろう)が歌い、この歌は昼となく夜となく、家のラジオに載せて、街のレコードに載せて、そして夜の巷に繰り返し流されました。
帝都(皇居のある都の意)を始めとして地方にも波及し、世を上げて踊り狂うかのような勢いで瞬(またた)く間に大衆に浸透し、大衆は大衆でこの歌を口ずさみ、あるいは歌に合わせて手振り身振りを行い、踊狂ったのです。
町内のあちらこちら、公園や広場や商店街の街角には、時期外れの盆櫓(ぼんやぐら)が組まれ、蓄音機から『東京音頭』が流れ始めます。すると同時に、邦楽・同門を思わせる着物の姿の女衆が音楽に合わせて踊り始めます。そしてこの集団に、着流し姿の男衆が加わり、踊りの輪は広がっていきます。
(ハアー)踊り踊るなぁら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の 真ん中で (サテ)
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
(以下合の手、囃子言葉省略)
ハアー 東京よいとこ 日の本照らす 君が御稜威(みいつ)は 君が御稜威は天照らす
ハアー 花は上野よ 柳は銀座 月は隅田の 月は隅田の屋形船
ハアー おらが丸の内 東京の波止場 雁(かり)と燕(つばめ)の 雁と燕の上り下り
ハアー 君と臣(たみ)との 千歳の契り 結ぶ都の 結ぶ都の二重橋
ハアー 西に富士ヶ嶽 東に筑波 音頭とる子は 音頭とる子は真中に
ハアー 昔ゃ 武蔵野 芒(すすき)の都 今はネオンの 今はネオンの灯の都
ハアー 花になるなら 九段の桜 大和心の 大和心のいろに咲く
ハアー 幼馴染の 観音様は 屋根の月さえ 屋根の月さえ懐かしや
ハアー 寄せて返して 返して寄せる 東京繁昌の 東京繁昌の人の波
▲東京音頭の踊りの輪。そしてこの輪は周りを巻き込んで拡大・膨張していった。まさに右回りの西洋思想を顕わす、ハーケン‐クロイツの右鉤十字の如くだった。
東京音頭の歌詞に、別段意味があるわけではありません。むしろ繰り返しによる痴呆に近いものすら感じさせます。ただ歌詞の二番目の「君が御稜威(みいつ)は 君が御稜威は天照らす」と五番目の「千歳の契り 結ぶ都の 結ぶ都の二重橋」の一節が天皇賛美が織り込まれ、また四番目の「雁(かり)と燕(つばめ)の 雁と燕の上り下り」は、性的なイメージを抱かせます。
この東京音頭は昭和8年8月1日、東京の芝公園で開催された盆踊り大会「東京音頭踊り」で披露された事が切っ掛けでした。レコード売上は130万枚に及び、東京音頭ブームは神奈川県等、隣県はもといり、大阪や地方各地にも波及し、満州国、ブラジル、アメリカ等の海外在留邦人にも及びます。
この男女の踊りの態(さま)は、まさに、江戸末期の幕府崩壊寸前の「ええじゃないか」節(幕末、東海・近畿地方を中心に起った大衆的狂乱。神社の神符などが降下したのを契機に「ええじゃないか」の囃子をもった唄を高唱しながら集団で乱舞した)を彷彿(ほうふつ)とさせる光景です。
男女の踊り社中に合わせて、今度は通り掛かりの通行人までが、この踊の輪に加わり、膨れ上るばかりでした。こうしたことが、短い夏場の季節だけではなく、秋口にかけても踊り明かす光景が見られたと言います。
こうした大衆コントロールの裏に、大衆の愚昧化(ぐまいか)を狙った内務省や在郷軍人会の画策がありました。
内務省は警察・地方行政・選挙その他内務行政を管轄(かんかつ)した中央官庁であり、1873年(明治6年)に設置され、廃止に至る1947年まで続き、暗黒政治の震源地でした。
そして内務省といえば、憲兵に匹敵する存在であった「特別高等警察」の猛威を忘れる事ができません。
この組織は一般には「特高」の名で広く恐れられ、特に思想犯罪に対処する為の警察です。特高は、内務省直轄の警察組織で、各憲兵司令部下の憲兵と伴に、政治や社会運動等の弾圧に当たりました。(【註】戦後は警察庁公安部に属し、「革マル派」等の過激派を取り締まる外事警察と、内事警察からなる公安刑事課を組織している)
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2.26事件。昭和11年2月26日早朝、昭和維新を唱える皇道派の青年将校によって軍事クーデターが起こった。民間トラックの屋根の上から警備をする反乱軍兵士。
また在郷軍人会は、予備役・後備役・帰休兵・退役等の軍人から組織された集団で、平時は民間にあって正業につき、戦時や事変に際しては、必要に応じて召集され、国防に携わるという、主に予備役軍人からなる在郷組織でした。
しかし忘れてはならないことは、内務省の指導に基づき、その指導下で地域住民を監視したり、思想犯罪等を監視する「街の眼組織」でもあったということです。
こうした組織は、世の中が混沌とし、鬱憤(うっぷん)が溜まったり、大衆の思想が体制批判に趨(はし)るのを防止すると同時に、世相をコントロールする役割も担っていたのです。
『青年日本の歌』が流行する直前、内務省が画策した『東京音頭』は、大衆のこうした矛先を変える意図を含んだ流行歌であったのです。
そして世の中は、5・15事件や2・26事件の軍閥(ぐんばつ)クーデターを経験しつつ、東条英機内閣の登場で日本は太平洋戦争突入へと、軍靴の足並みを揃えていくのです。
アメリカの突き付けた最後通牒(さいごつうちょう)は、完全に和平交渉の希(のぞ)みを断ち切り、日本海軍は真珠湾(Pearl
Harbor/ハワイ、オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地)に奇襲攻撃を敢行しました。
また、陸軍は「万歳」の声も高らかに、南方方面へ、あるいは中国大陸の奥地に侵入しました。
それは愚かにも「兵站(へいたん)部」を持たない進攻でした。
南は広東(Guangdong/中国南部の省)を目指し、また奥地の漢口(Hankou/中国湖北省東部の都市)を目指しての愚かなる進撃であったのです。戦線は伸びきり、拡大され、点から点に移動する、まさに愚かしいまでの戦線拡大策を日本陸軍は選んだのです。
そしてこれがまた、大日本帝国の「落日」のはじまりでした。
●戦場に駆り出された女性達
第七番目《7》の歌詞には次のようにあります
見よ丸天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐
夕嵐(ゆうあらし)……。それは夕方に強く吹く風のことです。
黄昏時(たそがれどき)の、夕闇(ゆうやみ)迫るそれを前後して、時折、強い風が吹きます。西の空から冬を感じさせる冷ややかな風が渡り込むと、そうした時機(とき)に、ふと、心に微(かす)かな胸騒(むなさわ)ぎを覚える……そんな強い風が、断続的に吹き荒れます。
人はそうしたとき、何かしら、得体の知れない胸騒ぎを覚えるのです。夕嵐は、こうしたものを連想させます。
唐代末期の詩人・李商隠(りしょういん/晩唐の詩人。字は義山。河南の人。生涯を落魄の中に送る。その詩は典故を多用して修辞に技巧を凝らし、宋の西崑体の源をなす。812~858年)の詩に、『楽遊原(らくゆうげん)』というのがあります。
この詩によれば、「晩に向んとして意適(あた)わず、車を駆(け)って古原に登る。夕陽限りなく好し、只是(ただこれ)黄昏(たそがれ)に近し」と詩(うた)っています。
つまり、「夕方になると(夕嵐が吹いて)何となく心が落ち着かず、車で楽遊原に登ってみた。(丘陵に吹く風は強いが)夕陽は限りなく美しい。しかし、もうそこまで黄昏(亡国の意)が迫ってきているではないか」という意味の詩です。
この詩は、まさに的中でした。この詩の中には、世情の不安を詩い、衰亡を思わせる暗示があったのです。唐は、この詩から僅か五十年後に、この暗示と共に滅びます。
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大戦末期、亡国が浮上した頃、敗け戦の気配が濃厚になると、日本陸海軍では特別攻撃隊が編成された。体当たり攻撃を目的とするこれまでの戦争目的を覆したものであった。「初桜隊」命名後、搭乗員達は生きて再び戻らなかった。
唐は、李唐(李氏)に始まる強大な帝国でした。
唐国公の李淵(高祖/在位618~626年)が、隋(ずい)の第三世恭帝(きょうてい/煬帝(ようだい)の孫。在位617~618)の禅譲(ぜんじょう)を受けて建てた統一王朝です。都を長安(せいあん/中国陝西省の省都)に置き、均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、当時世界最高の帝国であり、文明国でした。
しかし第二十世哀帝の時、朱全忠(しゅぜんちゅう/五代、後梁の太祖)に滅ぼされました。
西暦618年、李唐にはじまって907年までの、289年の寿命でした。
そして滅ぼした朱全忠は、五代、後梁(ごりょう)の太祖でした。名は温。全忠は唐の僖宗より賜(たまわ)った名。初め黄巣の部下となり、唐に降り節度使(唐・五代の軍職で、八世紀初め、辺境の要地に置かれた軍団の司令官の軍職を持つ。安史の乱中、国内の要地にも置かれ、軍政のみでなく民政・財政権をも兼ねて強大な権限を有した)となりました。
更に晩唐代、哀帝に迫って位を譲らせ、東都開封府に都して国号を梁と称しました。しかし次子の朱友珪に殺されたて、果敢ない六十年の生涯を焉(おわ)ります。
そして在位したのは907~912年の、僅か五年間であり、その人間の命は炎天下に舞い上がる百塵(ひゃくじん)の塵(ちり)のようです。
かつて日本は「大日本帝国」という時代がありました。これは明治憲法時代の日本の国号ですが、敗戦の決定される昭和20年8月15日まで続きます。そしてその中でも、昭和16年(1941年)12月8日から敗戦の日の8月15日まで、約三年八ヵ月に及ぶ戦争は、大日本帝国はじまって以来の悲惨さを極めました。
▲桜花11型(ロケット特攻機)。
一式陸攻の腹部下から発信し、この「桜花」は人間を無視した、空飛ぶ棺桶(かんおけ)と言われた。
日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって開戦し、華々しい緒戦を飾ったかのように見えました。しかしこれは戦争初期においてのみ、日本軍は優勢でした。
ところが昭和17年(42年)後半から、連合軍が反攻に転じ、ミッドウェー、ガダルカナル、サイパン、硫黄島、インパール作戦の失敗と白骨街道、沖縄本島等において、日本軍は致命的打撃を受け、本土空襲、広島・長崎の原子爆弾投下、ソ連参戦に及び、1945年8月14日連合国のポツダム宣言を受諾、そして9月2日無条件降伏文書に調印という流れで敗戦に至ります。
戦争中、日本ではこの戦争を大東亜戦争(日本が掲げたアジア支配正当化のためのスローガン戦争。欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く)と公称し、中国や東南アジアなど、アジア諸国を戦域に含む戦争であったことから、アジア太平洋戦争とも称しました。しかし、あまりの多い犧牲を払い、非戦闘員までもを含む多くの人命が失われました。
そして、大戦末期ともなりますと、戦場に男達が駆り出された為、これまでの男の仕事は、勤労女子学生や女子挺身隊の手に委ねられる事になります。
▲女学生の衣類切符返納運動。
▲日赤の看護婦、上海へ派遣。肩には弾避けの毛布が掛けられている。
▲防空服着と鉄帽準備で授業を受ける高等女学校生徒。
▲陸軍防空司令部の地下壕で電話交換台についた勤労女学生徒。
▲女学校生徒の軍事教練。女学生と雖も、三八式歩兵銃を担いだ。
▲海軍軍需工場(豊川海軍工廠)での女子挺身隊員。彼女達の多くは昭和20年8月7日の爆撃で多くが死亡。
▲飛行機組み立ての勤労女学校生徒。名古屋空襲で多くは死亡。
▲防空体制下、鉄帽を被って電話交換台で働く女子学生。
▲軍人なみの敬礼で、車掌勤務の勤労女学校生徒。
▲救護班軍医と、治療の助手をする臨事看護の女学校生徒。
▲近衛聯隊の兵士から、三八式歩兵銃の射撃指導を受ける女性。
▲軍需工場で砲弾製作の勤労奉仕をする女学校生徒。
大戦末期になると、「皇国婦女皆働令」によって、女性達も戦場へと駆り出されます。
これまで国家神道の影響下、女性達は神道思想に基づき、女体は不浄なものとされていました。いつの頃からか、女性が生理(月経)の時は、神社に詣でてはならないという事になっていました。こうした考え方は、基(もと)は仏教から来るもので、「五体不浄」とされ、その不浄は重く、月経の時は最高の穢(けが)れとされていました。
▲皇国婦女皆令の図
こうした思想が日本に入り込み、ほぼ定着したのは神仏習合の時でした。
神仏習合によれば、「神は仏の権現」であるから、月経の期間中は、神社に参拝してはならぬと言う事になっていました。
また、男子の精液も不浄だから、性交のあった翌朝は参拝が許されませんでした。そうした考え方から、父親の精と母親の血が交わって生まれた身体はそのまま五体不浄であり、特に、女人の業(ごう)は深いから、極楽往生は出来ないとされていました。
したがって、念仏宗の思想によりますと、「阿弥陀如来は、女人を男子に変成させて極楽に往生せしめる」としたのです。仏教の女人排斥は、つまり女人差別であり、仏教の女人不浄の思想は、そのまま神社にも取り入れられる事になります。
また、こうした考え方は、明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつくられた、国家宗教に大きな影響を与えます。そして、軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神(あらひとがみ)として祀(まつ)り上げ、天皇制支配の思想的支柱となっていきます。
月経は、仏教の不浄観からはじまり、神仏習合によって結びついた月経不浄は、元々、女人排斥を標榜(ひょうぼう)していたのですが、この考え方は大戦末期、再び覆(くつがえ)されます。
日本軍は兵站部(へいたんぶ)を確保しないまま、戦場を拡大した為、男達は戦場に駆り出され、韓国人や朝鮮人までを総動員して日本兵に促成栽培していったのですが、それでも人手不足で、これまで月経不浄として穢(けが)れの対象になっていた女性達が戦場へと駆り出されます。これが「皇国婦女皆働令」と言う、女性を戦場へ駆り出す、もう一つの国家総動員令だったのです。
女性達にも、「七生報国」の思想は重くのしかかります。これまで非戦闘員だった女性は、促成栽培的な戦闘要員としての働きが求められ、昭和20年以前の男子青年の「七生報国」は、女性達にも日常の心得として信念に変わっていきます。
▲松竹歌劇団も慰問に駆り出されて戦場へ。水の江滝子華北慰問団。
ちなみに「七生」とは、「七度、人間に生まれても敵を滅ぼす」という意味の信念を掲げたものであり、これは仏教の六道輪廻の思想から来た言葉です。大戦中には、これが逆手に取られて、皇国思想へと繋がっていきます。
人間は宿業(しゅくごう)ゆえに輪廻する六道とは、仏教では天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道で顕(あら)わされます。その中で人間の魂は七度生まれ変わっても、敵を滅ぼすと言う意味であり、その誓いの言葉が「七生報国」だったのです。
そして戦争に負け戦の様相が濃厚になって来ると、やがて七生報国は、祈りにも似た祈願成就の伝手(つて)となり、その細(ささ)やかな望みに、日本は女性達をも巻き込んで、戦争遂行に全力投球し始めます。
この七生報国思想とは、本来の仏教の倫理観すら無視した願望へと変わっていきます。そうした意味で、この思想の裏には、不可思議な感覚がある事に気付かされます。戦時では、女性達も戦士だったのです。しかし戦士は修羅(しゅら)の世界に落ちると言われます。
仏教では、七生報国の祈願を「悪趣(あくしゅ)の業念(ごうねん)」と言います。この意味は、こうした祈願によって死んだ戦士達は、志(こころざし)と違って修羅の魔界へと墜落します。
もし、そうであるならば、先の大戦の戦死者達は、男子と共に戦った女性達ですら、彼女達の霊は未(いま)だに成仏できないばかりか、日米両軍の激闘の想念を抱いたまま、「七生報国」の祈念と共に、その魂は、今なお、終わる事のない戦争を戦い続けている事になります。そして、飽(あ)くことなき戦いは、想念の地縛霊化を生み、多くの迷える魂を作り上げたことになります。
▲理想の軍国の母像。育児報国をもって、子供を軍事国家の兵士に仕立て上げる事だった。
国家神道の背後にある想念の恐ろしさは、「毒をもって毒を制す」という思想が流れています。
本来、神道では穢(けが)れを払う為に、「禊(みそぎ)」と「祓(はらい)」を行なうのですが、国家神道のように、ご都合主義に傾くと、「穢れ」を「穢れ」で祓うという方法を用いる事を強行します。
例えば、よく知られた一つに、女人禁制の漁船に、女性を乗せると言う行為です。
本来、漁師船は女人禁制でした。この思想は、日本では近代まで続いていました。しかし不漁が続くと、逆に、女と酒を船に積み込み、神聖な職場を穢し、魚場に出てドンチャン騒ぎをして、中には男女が乱れて性交遊戯を繰り返し、春画まで海にばらまくということをするのです。そうすると、不思議にも、魚場に魚が戻って来るという事が起こるそうです。
その他にも、船霊(ふなだま)として恐れられている水死人を、船の上に引き摺(ず)り上げ、これを戎様(えびすさま)として崇(あが)め、これを祀(まつ)ると不漁続きの魚場が復活するとも言われました。
「毒をもって毒を制す」この思想は、国家神道の特異とするところであり、本来ならば、祇園祭とか、羽黒(はくろ)の火祭りでは普段から絶対にその火種を絶やさないものなのですが、この神火を消して、わざわざよそから火を移し変えることをします。
日本ではこうした事を、平時と戦時に分けて使い分け、戦時になるとこうした「毒をもって毒を制す」ことをやってのけるのです。
貰(もら)い火は、「凶」とされる神道の世界でも、国策の都合で、こうした事も平気でやってのけて来たのです。これを国家神道では「火打ち返し」と言い、あるいは「逆祓い」と言い、女人の穢れを、そそまま聖戦に注ぎ込むという策が、女性を戦場へと駆り立てる、戦争指導者達の理由でした。
▲
戦時中、「産めや殖やせや」の国家政策で、大量に産まれた戦災孤児達。孤児達の殆どは、戦災によって親とはぐれ、また親を失い、両親の顔すら知らなかった。
神道の世界では、性器とか性欲は、不浄なものであり、穢(けが)れに通じる「凶」とされていましたが、国家神道は「国生み」に通じるとして、大戦末期から敗戦直後まで「産めや殖(ふ)やせや」で、子作りを国家規模で強制し、人口を殖やすことは国家にとって、「吉事」に繋(つな)がるとして、これを奨励したのです。したがって男女の交わりで、避妊等は、以(もっ)ての外(ほか)だったのです。
戦争と、人口の増える関係は、もともと戦争は、各々の国家政策で、人減らしの為に行なわれるのですが、戦争では多くに人が死にますから、これを補う為に、次世代の兵士が必要になって来ます。その為に「産めや殖やせや」の国家政策がとられるのです。大戦末期の日本の国策は、まさにこの「産めや殖やせや」であり、産児無制限は国家神道と結託した政策でした。
こうした現状の中から、終戦直後の世代にはベビーブームと言う現象が生まれます。
これはアメリカでも同様であり、大戦末期から終戦にかけての世代をベビーブーマーと言い、現在、世界はどの国も、第二次世界大戦の影響下にあって、急速に老人社会へ突入しようとしているのは、こうした「産めや殖やせや」の政策が、近未来の高齢者社会を作り出す要因を作ったのでした。
こうした背後には、日本では国家神道のご都合主義があり、「毒をもって毒を制す」意識が働いており、これが「産めや殖やせや」の国策に通じ、その60年前のエコーが今日、不成仏霊として、至る所で吹き出し、憑衣・憑霊現象を作り出しているのです。
こうした不成仏霊の抱いた想念は、今なお、消滅する事がなく、「七生報国」(【註】七度生まれ変わって、国恩にむくいること)の唸(ねん)で、永遠の戦いを繰り返しているのです。
戦場に駆り出された女性達の裏側には、こうした国家神道の思惑が絡んでいたのです。
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太平洋戦争下、日本軍は至る所で負け戦を展開していました。しかしこうした中、連合軍を驚嘆させたのは、中国とビルマ・ルートが交叉(こうさ)する地点で敢闘した、拉孟(らもう)・騰越(とうえつ)の守備隊の活躍があります。
蒋介石(しょうかいせき)麾下(きか)の最精鋭機甲師団がビルマに向かって南下した時、その途中には日本軍守備隊が守る拉孟と騰越と言う陣地がありました。
当時、ここを守備していた拉孟守備隊長・金光直次郎(かねみつなおじろう)少佐
http://yfm24651.iza.ne.jp/blog/entry/212096/
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1103/main14.html
の許(もと)にあった兵力は、歩兵・砲兵・工兵を併せて僅か約1400名足らずで、これに対して中国軍の兵力は、一個師団(組織編成は15000名からなる)ないし二個師団であり、2~3週間ごとに兵を交代させて、一刻も兵力を弛(ゆる)めないと言うものでした。
更に、二百門以上の重砲をもって砲撃し、数十機の戦闘機や爆撃機で空撃を繰り返しました。
守備隊長の金光少佐は、陸軍士官学校や予備士官学校出身の将校ではなく、二等兵からの叩き上げの軍人でした。それだけに、兵隊に対しての理解と愛情があり、また現場で実戦経験を積んでいる為に、その戦闘技術も軍上層部高く評価されていました。その温厚かつ篤実な人柄は、部下達だけではなく、従軍看護婦や朝鮮人従軍慰安婦からも愛され、信頼されていました。
金光守備隊の火力と言えば、10センチ榴弾砲十門、山砲四門に過ぎず、金光少佐はこれを効果的に遣って、中国軍包囲網に大きな打撃を与えました。夜になると少数の野戦斬り込み隊を組織し、敵陣に斬り込んで敵の武器弾薬を奪い、昼間はこれによって、敵の攻撃を撃退し続けました。しかし、敵の攻撃は激しく、ここで死闘三ヵ月を繰り返しました。
多くの将兵は傷付き、本来ならば野戦病院にいるはずの片手、片脚、片目の兵士も第一線の陣地に立て籠(こも)り、従軍看護婦や従軍慰安婦達もここに立て籠りました。彼女達も小銃を手に戦ったのです。負傷した兵隊や、女性達の闘魂を支えたのは、金光少佐個人に対する人間的な信頼への傾倒であったのです。
やがて弾薬が尽き、兵は殆どが負傷者ばかりとなります。金光少佐は最後の総攻撃を決行します。そして金光少佐は、日本人従軍看護婦や朝鮮人従軍慰安婦を集め、「中国軍は、君らを捕虜として扱うが、決して殺したりはしないだろう」と、最後の言葉を述べ、護衛兵をつけて、彼女らを陣地の外へ脱出させます。
しかし日本人女性達は戻って来て、「敵の捕虜となって辱(はずかし)めを受けるくらいなら、隊長と一緒に死にます」と言います。かくして拉孟守備隊は、ここで玉砕(ぎょくさい)する事になります。女性達も、戦士として金光少佐と運命を共にしたのです。
戦争において、何処の国の軍隊でも同じなのですが、勝った側は、負けた側の国の婦女子を強姦すると言うのが通り相場的行動となっています。戦場での兵士の心理は、極度に緊張する為に、その反動として性欲が高まり、勝てば、負けた側の婦女子の強姦すると言うのは通り相場であり、残念ながら、戦争犯罪と無縁だったと言う軍隊は、歴史上、ただ一つの例外すらないのです。したがって、婦女子は男の暴力に屈します。
また騰越守備隊も、陣地に立て籠(こも)って壮絶な死闘を繰り広げます。不完全な陣地ながらも、二十倍以上の敵を相手にして戦い、抗戦60日余りを守備し、最後の指揮官・太田大尉を先頭に突撃を行ない全員玉砕しました。果たしてこの戦場を戦った兵士や、それの随行した女性達は、その最期が清らかであったか否かは、偏(ひとえ)に勇気と信念にかかるはずです。任務を遂行したのであれば、魂は穢(けが)れのないまま、その清らかさが保たれた事になります。
この戦闘の後、
蒋介石は、「最近の我が軍へ勇戦は、まことに喜ばしいものであるが、なお、足らざる兵がすくなくない。日本軍の拉孟と騰越の守備隊の守備隊ごときは、まことに敬意を表すべきものであり、斃(たお)れてもやまない勇戦敢闘は、我が軍も大いに模範とすべきである」という、日本軍玉砕に対する最高の追悼(ついとう)を下しています。しかし失われた命は、再び蘇(よみがえ)ることはありませんでした。
繰り返すまでもなく、戦争がどんなに愚かであるか論ずるまでもありません。しかし戦争を避ける事が出来ないのも、また事実です。
戦争そのものを正義であるか否かは別にして、戦争によって失われる命の犧牲は膨大なものであり、戦場における人の命など、虫螻(むしけら)同然となります。そして一人の兵卒や一民間人の活躍など、歴史の記録に残らぬ程、哀れで、無慙(むざん)に消滅していきます。
しかし一方で、戦争に駆り出され、無慙に消えていく、人間の命とは一体何だろうと考えさせられます。実に遣(や)る瀬(せ)ない思いが湧き起って来ます。そうした事実を背景に、戦争と云う現実から人間は逃げ果(おお)せる事が出来ません。
では、こうした現実に直面した場合、一体人はどうしたらよいのでしょうか。
人間を論ずるその価値観は、非常の事態に遭遇した時、それをどのように対処するかにかかります。平時の日常生活を営む上で、優位に物事をすすめる事の出来る人であっても、一度戦時の非日常に事態が変化した時、これに対応できず、無態(ぶざま)を曝(さら)す人は少なくありません。特に知識で人生を渡って来た人は、この傾向があります。
知識の施行は勇気と信念の実践ではありませんから、これが欠如していると、今までの理屈が通らなくなって混乱に陥ります。
人類にとって、戦争が正義か否か、それを論ずる事は不毛の議論です。明らかに戦争行為が、どんなに理不尽で、どんなに不条理であっても、勝者が正義になる事は歴史が明白に物語る事実であり、これに異論を挟み、覆(くつが)えす事が出来ません。敗者は悪玉と論(あげつら)われ、悪の譏(そしり)を免れません。したがって欺瞞に満ちた戦争の論理を論い、これを議論する必要性は全く無い事が分かります。
最も大事なことは、戦争に直面し、それに対し、個人がどのように対処したかが、最も重要な問題になる訳です。極限状態に直面した時、個人として、勇気と信念をもって堂々と戦うのと、卑怯未練な行為に趨るか否かで、その天意の価値観が決定されてしまいます。
戦争そのものは、まさに欺瞞から成り立っています。この欺瞞の多くは権力者の野心であったり、戦争指導者の欲望が見隠れします。しかし、国民の上に君臨する指導者の野心ではじまった戦争であっても、自身が卑屈になったり、卑怯未練な行為を行えば、自らの想念を悪想念で汚してしまいます。この悪想念は、一旦抱くと生涯消える事がありません。また、運良く一時的にその場を逃げ果せても、後ろめたさが何処までも付き纏います。
任務を果たさずに敵前逃亡を企てるのと、最後まで任務を果たすのとは雲泥の差が出ます。戦争指導者が、邪悪な想念ではじめた戦争であっても、その邪悪な想念に煽られて、自らの想念まで汚す必要なないのです。
この場合、自分の任務を果たす事に専念すれば良いのです。この事によって喩え命を失ったとしても、想念を汚す事がなければ、その意識体は精神世界で永久の生命を得る事になります。戦争に勝つか負けるかと云う事よりも、「如何に立派に戦ったか」と言う事が、実は問題なのです。
卑怯未練な行為をして、たとえ生き延びたとしても、その人の死にざまは決して良くありません。それは既に、卑怯未練を働いたという事で自らの想念を汚しており、これが凶事に繋がって、死にざまを悪くし、臨終に失敗します。潜在意識に残る卑怯な振る舞いは、何処までも付き纏い、臨終の時、清き最期を迎える事が出来ないからです。
人間が絶体絶命の場面に遭遇した時、それを切り抜けられるか否かは、勇気と信念にかかります。勇気と信念をもって、自らの魂を悪想念で汚さぬまま、逃げずに立ち向かうと云う事です。
逃げれば、悪想念で自らの魂と、魂に刻み込まれる想念を汚す事になり、清らかさは一気に穢れで汚染されてしまいます。穢れで汚染されると、不安や迷うが生じ、静粛さが失われて、優柔不断となり、行動に躊躇(ちゅうちょ)が起ります。この躊躇は、巡り巡って悲惨な結末を迎えます。
勇気と信念が欠如すれば、個人的な人生における転機であっても、企業の経営方針の転換であっても、為政者の政治的決断であっても、そこには覚悟を持った、勇気と信念がなければなりません。どういう覚悟で、それに臨んだかが、その後の運命を大きく左右してしまうのです。
実行力と決断力が問われる場合、そこに必要とするものは「覚悟の程」です。
悪想念の中には、「弱さ」「卑怯」「未練」「卑屈」などが含まれますから、既にこうした事を表面化する事だけで、悪想念が湧き起ります。これは神界の清く安らかな波動とは異なり、心を汚染するものとなり、騒音に満たされた魔界のそれです。
勇気と信念が失われた場合、それは弱さとなり、卑怯未練が起り、心は卑屈になります。この卑屈こそ穢れで汚染された波動であり、この波動は永遠に神界の波動とは合い交(まじ)える事はありません。
人の命は桜の花弁(はなびら)のように儚(はかな)いものですが、常に勇気と信念を持って難事を乗り越える事ができれば、それは歴史の中で永遠に輝きます。そしてこの輝きの中に、神界の極めの細かい、清らかな永遠の命が宿っているのです。
●極限状態の中で、人は何を任務とするか
陸海軍の軍属に属して、日本兵ともども、多くの女性達の命も失われました。
戦場では兵を組織する上で、兵隊にはいろいろな役割があります。例えば聯隊編成ですと、約千六百名で組織される三個大隊が聯隊(れんたい)指揮下に組み込まれ、これに砲兵中隊(山砲4門)、速射砲中隊(4門)、通信中隊、衛生隊、工兵隊の、約五千人規模で編成されます。
そして、こうした後方の兵站部には、野戦病院が附設され、軍医の指導の許(もと)、衛生兵や従軍看護婦が重軽傷者の看護をしました。
兵站部では、召集された日本赤十字救護看護婦が野戦病院に派遣され、ここで負傷兵の看護にあたりました。最初、従軍看護婦の勤務した病院は、後方兵站部の安全地帯でしたが、大戦末期になると、連合軍が奪回に来た最前線にも勤務するようになり、日本軍のそうした野戦病院は忽(たちま)ち戦場となり、従軍看護婦達は、病院を捨てて、軍と共に移動しつつ、傷病兵の看護にあたりました。
▲靖国神社を参拝する陸軍女子通信隊。
▲軍需工場の女子挺身隊。
▲集結した大日本愛国婦人会員。
▲女学生郵便配達の自転車部隊。
女性達の駆り出された戦場は、後方の大本営陸海軍部に比べれは、遥かに死ぬ確率が高く、一種の決死隊的要素を含んでいました。
本来、何処の国でも、こうした最前線に兵士を送ったり、決死隊的な戦場や、決死隊を編成する場合は、職業軍人の中から募集するのが通例でした。
何処の国でも、士官学校や兵学校を出た職業軍人から応募者を募り、それで部隊を編成するのが普通です。あるいは陸軍大学(日本の場合は正しくは大学校)や海軍大学の出身者からも応募者を募ります。
これは第二次世界大戦の時も同じで、欧米各国は、それが近代的な軍隊としての常識でした。
ところが日本の場合は、欧米とは全く逆でした。士官学校や兵学校の成績上位者は、総べて陸軍大学か、海軍大学へ優先的に入学出来、ここで上位に入ると、陸軍省や海軍省の参謀本部に配属されます。
そして終戦までエリート扱いで温存されて、安全圏で保身を図り、檄(げき)ばかりを飛ばし、机上の空論を練り上げる役職に終始します。 決死隊の編成も、陸大・海大のひと握りのエリートが下しますし、特に、日本のように学徒動員の素人を特攻隊に仕立てて、敵艦に体当たりさせると言う、こうした狂気の沙汰は、世界のどの軍隊を見ても見当たらず、日本だけが例外でした。
第一、敵に捕らえられて拷問(ごうもん)されても、職業軍人ならば軍機を洩らさないのが当然と看做(みな)されます。また、同じ敵前逃亡でも、職業軍人の場合と、徴兵のよる一時軍人とでは、軍法会議での刑が異なっていると言うのが国際的な通例です。
ところが、日本の場合はこうした国際的通例が度外視されて、職業軍人の敵前逃亡は、軍上層部で握り潰されて、故意に見逃されるか、軽くなり、徴兵による即席の一時軍人の刑は、銃殺刑等を以て、実に厳しく処罰されました。
大戦末期、フィリピン第四航空軍の冨永恭次陸軍中将は、アメリカ軍がマニラに上陸すると、護衛付の陸軍機を仕立てて台湾へと逃亡を企て、何の処罰もされないどころか、一度は予備役に廻されたものの、再び現役に復帰して、支那方面の軍団長として北支に向かい、一時はハバロフスク(ロシア、極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川との合流点に位置し、シベリア鉄道の要衝)に抑留されますが、戦後は厚生省から高額な軍人恩給を貰って、安穏とした優雅な生活を送りました。
一方、戦場経験の長い、経験豊かな、ある下士官は、新米の士官学校出の間違いだらけの将校の無謀な命令に従わず、これを無視したところ、脱走や敵前逃亡の罪が課せられ、戦後は脱走兵として扱われて、軍人恩給の一切の支払いを厚生省から拒否されて、無念な晩年を送ったという人がいました。
日本は、このように上には甘く、下には非常に厳しい官僚主義国家なのです。こうした官僚主義国家が、実は無名兵士として、女性達をも最前線へと送り出していたのです。
そして彼女達は、部隊が負け込んで来ると、最後は玉砕を強いられるか、あるいは捕虜となって、敵兵の慰めものにされ、梅毒を移されたり、筆舌に尽くし難い屈辱を受けて、最期は青酸カリ等で服毒自殺を図りました。こうした惨劇は、満州や北支、南方方面の東南アジアで繰り返され、一時軍人や一時軍属の女性達が、若い乙女の命を散らせました。
▲本土決戦に備えて、木銃訓練をする音楽学校の女子学生達。
▲満州軍・華北鉄道警備の、ブローニングで射撃練習する婦人警察官。
▲従軍看護婦は、正しくは「日本赤十字救護班看護婦」と言われ、前線へ送られた。
昭和20年8月15日、太平洋戦争は終わり、日本はこの戦争に、多くの犠牲者を出して敗れました。しかし女性達は、この日に戦争は終わりませんでした。
この日の午後から翌日に亘り、内務省通達で、今まで木銃訓練や竹槍訓練をしていた女子学生達は、今度は進駐軍の上陸に備えて、この日より、進駐軍相手の即席従軍慰安婦に仕立て上げられ、進駐軍慰安女子挺身隊が組織されました。
▲混血児を保護・収容した私設孤児院エリザベス・サンダース・ホーム(昭和22年)。
内務省通達によれば、進駐軍慰安女子挺身隊の組織理由は、「皇族や華族の子女並びに特権階級の子女である財閥令孃、及び軍首脳の令孃が、進駐軍兵士に強姦や乱暴等をされない為に、その身替わりとして、進駐軍慰安女子挺身隊がその任に就く」と言うものでした。
今まで女子挺身隊として勤労奉仕をしていた女子学生達が、今度は慰安婦として、上流階級の子女に代わり、その身替わり強制されたのです。何と、狂った論理ではありませんか。 同年の8月下旬以降、焼跡の日本は非常な混乱期にありました。
太平洋戦争は終わったにもかかわらず、更に同年の10月頃から、戦後処理の国家的な緊急施策の一端として、政府はその後も執拗(しつよう)に、進駐軍従軍慰安婦として日本人女性が進んで応募するように仕向けました。
肩書きは女子事務員の名目で集められ、これに応募した女性達は、アメリカを中心とした占領軍相手に、夜な夜な激務に追われ、数カ月後にはボロ雑巾のようになって夜の街に放り出されました。
占領軍を相手にした多くの日本人女性は、占領軍兵士に弄(もてあそ)ばれ、その挙げ句、妊娠して、アメリカ兵との間に、かなりの数の混血私生児が生まれました。こうした生み捨てられた、アメリカ兵との間に生まれた混血孤児達を保護・収容し、その人力を尽くしたのが、私設孤児院エリザベス・サンダース・ホームでした。 これは皇族や華族の子女並びに、特権階級の子女である財閥令孃、及び軍首脳の令孃の身替わりとして、今まで勤労奉仕をしていた女子挺身隊がこれに充(あ)てられたのです。
どうして日本上層部は、こんなに不条理な事ばかりを、下々(しもじも)に押し付け、ご都合主義ばかりを展開するのでしょうか。
庶民の多くは、まさにひと握りのエリートを温存させる為の捨て石であり、人間性を無視された微生物ではありませんか。
微生物の、千匹や、あるいは一万匹など、捻り潰されても、上層階級に生きる人達は、自分達のしている事に、人間として、その良心に恥じないのでしょうか。あるいは血の通う心は、既に失っていて、良心は痛まないのでしょうか。
そして今も、こうした論理が罷(まか)り通り、官僚主義とご都合主義で、庶民階級の微生物は、自覚症状のないまま、身も心も搾取(さくしゅ)され続けています。
また
終戦直後の、旧日本軍が放棄した毒ガスの汚染も、未だに猛威を振るっています。
特に、アルシン酸(チフェニール)等の毒ガスは今でも深刻な爪痕(つめあと)を残し、戦後六十年を経った今でも毒ガスの犠牲者は出続けています。防衛庁の発表によると、現在でも旧日本軍が放棄した毒ガス汚染箇所は、これまで30ケ所と思われていたものが、実際には138ケ所にも上り、この毒ガスの土壤汚染や地下水汚染で、犧牲になっている人は後を絶ちません。
アルシン酸等の猛毒の毒ガスは、脳や脊髄の異常を来し、特に小脳に大きな悪影響を与えて、神経細胞等に異常を発生させ、運動神経や言語等に問題を起こします。アルシン酸というのは、水素化砒素(砒化水素)の別称で、にんにくに似た臭気をもつ無色の気体で、猛毒です。また同種のものにインペリット毒ガスが上げられます。
これらの毒ガスは健康に与える影響が非常に大きく、数十年に亘り、眩暈(めまい)やふらつき等の異常を発生させます。
そして
こうした毒ガスの存在を知りながらも、抜本的な対策を講じなかった日本政府は、やはり国民を微生物視する考え方が、行政の根底にある事が否めません。
国民は微生物視され、何処までも搾取される現実があるようです。
●
ちょっとおかしい?有事立法の罠
あなたは「有事立法」と言う法律を、正確に理解しているでしょうか。あるいは理解出来たでしょうか。また、この法律の落とし穴を、ご存じでしょうか。
さて、世界情勢はニューヨークの同時多発テロ事件が起こり、アメリカがアフガニスタンに報復的な武力発動を強行したり、テロ支援国家だとイラクを決めつけ、イラク戦争に踏み切って以来、世界の風景は非常に変わったものになりました。
日本国憲法第九条第一項には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあります。
しかし、このように定めた憲法ですら、有事立法の動きで、微妙な立場に立たされました。
有事立法の表向きの狙いは、万一、日本に侵略軍を攻撃を加えた場合、自衛隊をどう戦わせるかと言う事が詳細に決められ、戦闘目的を主体にした法律であると国民には説明されています。
しかし実際的には、それ以上の内容を含み、世界中に多発するテロを根絶させる為に、アメリカ軍が臨戦態勢に突入した時には、これも有事と考えて、自衛隊がある種の臨戦態勢を取り、戦争を展開でるようにする法律なのです。
これを深く洞察しますと、どうやら純粋な国土防衛の観点から作成された法律ではなさそうです。
有事立法の持つ性質は、アメリカに追随する日本が、かつてのように日本自身でリーダーシップを発揮する立場にはないものの、アメリカの第五十一番目の日本州として、愚かな戦いを繰り返すのではないかと言う懸念(けねん)すら窺(うかが)えます。
そういう過去の、戦争への歴史に対する深刻な反省が認められなければ、世界の歴史はまた、これより半世紀前以上も逆戻りしてしまいます。
そしてアメリカは、日本を傘下に入れたまま、同時多発テロ事件以後、逆戻りのコースを辿ろうとしているの明白です。
私たち日本人が、先の大戦の教訓から学ばねばならないことは、未曾有(みぞう)の戦争地獄から、幾多の貴重な出来事が残した教訓です。この戦争地獄のメカニズムは、一度動き出したら、もう誰の手にも止められないと言うことです。
一度戦争は起これば、この巨大で複雑な構造を持つ政治現象は、行き着くところまで行き着かなければ、止まらないと言う事実があるのです。これこそが、非実在界に置かれた戦争の偽わざる姿なのです。
先の大戦から窺(うかが)えることは、
個人の意思は、組織の思惑や潮流に捩(ね)じ曲げられて、心無き決定下に置かれると言うことです。不合理や理不尽を組織の為に甘受して、表面的で刹那的な正義が賞賛されて、ある者は最前線へと送られ、またある者は特攻志願者として特攻機で出撃しました。 そして
こうした背景の裏には、国家の政治的経済的な独占があり、学術筋や権威筋の独占があり、自称正義の独占がありました。果たして、大東亜戦争は「聖戦」だったのでしょうか。
いま、日本人は、戦争と言うものをどれくらい理解し、その即座に地獄へと転ずる本当の恐ろしさをどの程度、理解しているのでしょうか。
日清・日露の戦争は兎も角として、昭和のはじめからその二十年間に亘る時代の、この期間の歴史の中で、何が行なわれて来たか、それをハッキリと把握する必要があります。また、背後に潜んでいた、アメリカの策略も見逃してはなりません。更には、アメリカ政府に圧力をかけて来た、国際ユダヤ金融資本と言う強大な軍産勢力の存在も見逃してはなりません。
戦争は繰り替えしてはなりません。悲惨な戦いは、その想念の悪さから起こります。自他離別意識から起こります。これを無くせば、戦争は派生する場面をなくし、愛の想念で覆われれば、先がどのように変貌を遂げようと、苦しみの種にはならないのです。
そして太陽系という有限な宇宙空間に、私たち以外にも、有力な動植物の存在があると言うことを忘れてはなりません。
この認識こそ、自他同根であり、自他同一意識なのです。
「戦争はもうこりごり」等の感情的な反戦論ではなく、軍事力の任にあたる各国の軍事公務員に対し、歴史的教訓を伝えようとするその努力は、便乗気味の反戦主義者の言よりも、数倍も、数十倍も重いと言うことを理解されねばならないのです。
癒しの杜