昨夜(12/10)のNHK『
ワーキングプア』の再放送について感想を記事にしたい。キャスターが言っていたように、昨年のこの番組を契機に「ワーキングプア」という言葉が社会に広がり、この問題が「個人の責任」ではなく「社会の問題」であるという認識が一般的なものとなった。この放送の果たした役割は本当に大きい。働く貧困層の問題が「社会の問題」として一般的になったということは大きく二つの意味がある。一つは、その問題が多くの視聴者にとって自分の問題として受け止められるようになったということである。他人事ではなくなったのだ。それはきっと、昨年より今年の方が一層身近な問題として感じられているはずで、自分もいつ同じ境遇に陥るかも知れないという危機感を誰もが率直に感じ始めたということだろう。他人事ではなく自分自身の問題なのだ。その問題が「個人の責任」であるということは他人事ということである。自分の与り知らぬ他人の不幸だったのだ。それが「社会の問題」になるということは、まさに「自分の問題」になるということだ。
これまで、フリーターやニートという言葉で蔑視してきた対象に対して、内在的で同情的な視線を国民一般が持つような空気(思想環境)に社会が大きく変わったということを意味する。同じ社会的存在が、ネガティブな否定された存在から、真摯な関心を集める肯定された存在へと一転した。二つめの意味は、この問題が政策によって惹き起こされた社会問題であるという理解が一般的なものになりつつあるということである。働く貧困層の不幸は、本人の責任によるものではなく、個人の運命でも必然でもなく、国家の社会政策によって結果された人為的災禍であるという事実が暴露され、一般の認識になってきたということである。私も正直に言えば、この「一般」と同じで、少し前まではフリーターやニートという言葉、それが指す若者の生態に対して決して内在的な視線を持ってはいなかった。新自由主義者とマスコミが散布する「自己責任」のイデオロギーに洗脳されていた側だった。それが少し変わったのが、05年の2月にNHKで放送された『
フリーター漂流』を見てからである。
派遣労働の実態というものを当時はよく知らず、製造業でも派遣労働が認められる法改正(規制緩和)が行われたことをよく承知していなかった。NHKの『ワーキングプア』は社会を大きく変えたと言える。この放送の説得力によって、人々の意識は変わり、そのことは今年の参院選挙の政治へと繋がって行った。この番組を抜きにして、昨年からの民主党の(あのCMで象徴的に表現される)生活政策への路線定置は考えられない。書店に行くと、書棚に大きくスペースを割いてワーキングプア関連の本が並んでいる。その中でNHKの番組を本にしたものが売れている。考えてみれば、例えば『
下流社会』という本もよく売れたが、同じ問題を取り扱ったものでありながら、この本の議論は必ずしもニートやフリーターに対して内在的なものではなかった。こうした社会問題を解決しなければならないという切迫した意識はなく、単に状況と傾向と予測が客観的に綴られていただけに過ぎない。視角は上からの、自己の没落を予想しない評論家からのものであり、対象に対する酷薄な心理は行間から伝わってきた。
NHKの『ワーキングプア』がなければ、この傾向は続いていたかも知れない。問題を論ずる本は多く出ても、基本的には他人の不幸の話であり、不幸に陥った人間の自己責任であり、再チャレンジの教育訓練機会を行政で適当に手当てすればいいだろうという程度の議論で終わっていただろう。NHKの番組が他の官僚学者や売文評論家たちの視角と違うのは、人間を見る根本的な哲学のところであると思われる。番組の中で二回ほど、「何かあったときのための最後の貯金」の問題が出てきた。場面を思い出すと胸が熱くなり苦しくなるが、角館で洋服の仕立をやっている老人が、入院している妻が死んだときの葬式の費用として百万円の貯金を残していて、それがあるために生活保護を受けられないという問題があった。京都で空き缶を集めて売って月5万円の収入で生活している80歳と75歳の老夫婦は、最後の70万円の貯金を残しているために生活保護を受けられないという問題があった。番組のメッセージで印象的だったのは、その最後の取り崩せない貯金というのは、人間の尊厳の問題なのだという主張だった。
この考え方こそ、きっと憲法25条の思想そのものなのだろう。人間の尊厳の問題。権利の問題なのだ。人間の尊厳の問題というのは、分かりやすく言えば、「人をバカにするな」ということである。番組スタッフのメッセージにはそれがあった。経済問題ではない。内橋克人はこう言った。「この問題は景気がよくなれば解決されるというものではありませんね」「労働とは何か、人間が働くということはどういうことかという問題ですね」「人間の尊厳が問われているのです」。現行の日本の制度は、生活保護受給と引き換えに、その人間の最後の蓄えを出し尽くせと迫る。そして北九州の52歳の男を餓死させたように裁量で弄んで死に追いやる。病気で働けない人間に「働け働け」とケースワーカーが責め立てて自殺に追いやる。昼と夜と二つ仕事を抱えて、睡眠4時間で、専門学校へ行きたくても行けない人間に資格を取れと言い、できなければ自助努力が足りないと言う。そういう行政(政府と市民の関係)がまかり通っている社会でいいのかという問題なのだ。
人間の尊厳が最低限認められ保障される社会でなければならないはずだと訴えているのである。この問題は単なる経済問題ではない。まさに日本の国民の権利の問題だ。内橋克人の言葉を聞きながら、私は「逆もまた真なり」と確信した。景気がよくなっても働く貧困層の問題は解決しない。と言うことは、きっと、人間の尊厳と権利を正当に認める福祉国家の社会保障制度を作れば、景気が悪くなっても、その国の人間はこのような惨めな絶望の思いをしなくても生きて行けるのである。北欧諸国はそうなのだ。ワーキングプアの世代間継承をしなくても済むのである。例えば、あの福島のケースのような母子家庭の働く女性に就学休業支援をして、そして、あの夜勤のアルバイトで父親が一人で働いて二人の子供を育てている家庭に子供が大学に進学する費用を奨学金援助して、それで一体どれほどの国家予算の支出になるのだろう。5千億円程度なら今すぐにでも出せるだろう。1兆円の金が無いのなら米国債を一部売却すればよいではないか。
辺野古基地建設をやめて、グアム移転援助をやめて、米軍再編をリセットすれば財源は湯水の如く捻り出せるではないか。MDの配備を中止すれば5兆円が手元に残るではないか。カネは軍事ではなく福祉に使え。NHKはそれを「日本を蝕む病」だと言っている。早く病を治さないといけない。労働法制を元に戻して、労働者の雇用と所得を守る政策を実施しないといけない。製造業の派遣労働を禁止しないといけない。外国人労働者の流入を止めないとけない。社会保障制度を元に戻さないといけない。ワーキングプアが世代間継承されて、社会構造として固定化され循環するようになる前に、一刻も早く政権と政策を変えないといけない。
【薬害肝炎問題】薬害肝炎の問題が気になる。昨夜はNHKの7時のニュースも、テレビ朝日の報道ステーションも、このニュースがメインだったのに、今日の朝日新聞にはこの関連の記事が一つも出ていなかった。山口美智子の訴えが胸に迫る。51歳。実名公表だけでもどれほど勇気のいることか。
この問題も、まさに同じく「人間の尊厳の問題」であり、人間の命の尊厳の問題に他ならない。人をバカにするな、人の命をバカにするなという問題である。舛添要一と福田首相と厚生官僚は人の命をバカにしている。昔の徳川幕府の官僚でも、もっと血の通った行政をしていただろう。
ニュースの映像を見ながら、議会解散運動の
とくらさんの姿を思い出した。それにしても、浜四津敏子はなぜ官邸を突き上げないのか。信濃町はどうして黙って見ているのか。こんなときのための公明党ではないのか。選挙目当てでも何でもいいから、政権与党の一角として何とかしてみろよ。