原告意見陳述書
原告 坂東弘美
原告の坂東弘美です。フリーランスのアナウンサーです。放送局で仕事をしていた頃の私のモットーは、政治的には中立。標準語で、明るく、優しくでした。しかし、10年も続けていると、自分の話している言葉が、誰の心に、どのように届いているのかと考えるようになりました。そして1988年に、自宅を開放して「がま口塾」というフリートーキングの会を始めました。誰が来ても来なくてもいい。テーマも司会も皆で決めます。皆と話し合う中で、私は、「言葉はどんな時にどんなふうに使うべきか」ということを学びました。今から私は、私にそう教えてくれた出来事を3つお話して、何故原告になったかという説明にしたいと思います。
チェルノブイリ放射能汚染地の取材と救援活動
一つ目です。がま口塾で原子力発電について話し合ったことがきっかけで、1990年の夏、チェルノブイリ救援中部という市民団体の代表として、10日間ほどウクライナのチェルノブイリ原発事故の被災地を回りました。被害の実態がほとんど知られていなかった頃です。事故から4年経つ現地では驚くことばかりでした。ウクライナとベラルーシには、280万人もの人々が放射能汚染を逃れて移住しなければならないのに、そのまま暮らし、居住禁止の村にも、行く所がなく住み続けている人たちがいました。そして私達が日本人だと知ると誰もが広島・長崎を体験している日本は、ぜひ助けてくれと言うのでした。それだけ被爆による病気で人々が苦しんでいたのです。しかし、放射能には色も臭いも音もありません。情報や保証がない限り、一般の人々はそこで暮らし続けることになります。
アメリカ軍はイラクで大量の劣化ウラン弾を使用しました。ウラン金属を兵器として用い、大地を永久に汚染したのです。汚染された大地で暮らす人々が、年を追って悲惨な運命を引き受けねばならないことを、私は容易に想像することが出来ます。その恐ろしさを「静かなる虐殺」「静かなる民族浄化」と呼ぶ学者もいます。
その土地へ自衛隊が行っています。
チェルノブイリ原発から50キロの町、ナロジチで、「チェルノブイリ資料館」を見学した時のことです。一人の母親が私の前で詩の朗読をしました。「神様どうぞ助けて下さい。こんな恐ろしい未来になるなら、子どもなんか生まれないほうがいい・・・」。そういう詩でした。帰国後も汚染地からたくさんの手紙を受け取りました。「病に関してはもう手遅れです。私たちは物がほしくて手紙を書いているのではありません。慰めの言葉や私たちのことを考えてくれている人がいると思うことで生きていけるのです」という文章にふれた時、私は『ああ、言葉というものは、計り知れない底力を持っているのだ』と実感しました。恐怖や不安に打ち勝つために、武器は要りません。私たちは武器がなくても「言葉」の力で生きていけるのです。
2.留学生服部剛丈君射殺事件とアメリカに対する銃規制請願運動
二つ目の話です。1992年10月17日の夜、アメリカ、ルイジアナ州のバトンルージュで、留学生だった名古屋の旭丘高校2年生の服部剛丈君が、訪問する家を間違えて、家主に44口径のマグナム銃で射殺されました。母親の服部美恵子さんは私の幼馴染で、がま口塾の会員でもあります。彼女は、銃を撃ったロドニー・ピアーズ氏もアメリカの銃信仰の犠牲者だとして、彼を恨むことせず、「米国の家庭から銃の撤去を」請願する運動を始めました。YOSHIの会が結成され、私はその事務局を務めました。1年後、日米の多くの方々の協力で、170万人分の署名をホワイトハウスのクリントン大統領に直接面会して、届けることができました。このことで私たちは、1995年、名古屋弁護士会から人権賞を受賞しました。「画期的な銃購入規制を盛り込んだ『ブレディ法』の成立に貢献するとともに、日米両国において銃のない社会を目指す運動を精力的に展開している」という受賞理由です。私と美恵子さんは「海をこえて、銃をこえて」と題した、この運動の経過をまとめた本を出版しました。昨年、クリントン氏が来名された時、チャンスを頂いて、私はクリントン氏と握手をしながらそのことを報告して、よりいっそうの銃規制をお願いしました。
ところで、両親は息子の死に関わる裁判を二つ闘っています。刑事裁判では無罪評決が出て、被告のピアーズ氏の行為は正当防衛として片づけられました。最終弁論で被告弁護士は「玄関のベルが鳴ったなら、誰に対してでも、銃を手にドアを開けることが出来る法的権利がある。それがこの国の法律だ。」と語りました。アメリカで活動を支えてくださった、ルイジアナ州立大学助教授の加茂美則氏著作の「アメリカを愛した少年」に経緯が詳しく書かれています。
2年後の民事裁判では勝訴しました。分別のある人間であれば「どうして銃が必要なのか、何が見えたのか。」聞くはずだとして、正当防衛は認められないとしました。映画「世界中に轟いた銃声」に、この民事裁判のいきさつが詳しく描かれています。映画の制作者はアメリカ人です。
剛丈君の死亡保険や、多くの方々の寄付によって、私達はアメリカから留学生を招いたり、アメリカでの銃暴力をなくす、草の根の活動をしている団体に賞を毎年送り続けてその運動をサポートしています。これらが認められて服部夫妻は、2002年度Galatti賞を受賞しました。この賞は、全世界10万人のAFSボランティアの中から毎年3名に贈られるものです。世界中の本当に多くの人たちが、平和な世界を願って異文化交流に努力しています。
つい先日、アメリカで我が子の命を銃によって奪われた両親とその家族が母体となって発足した、ストップガンキャラバン隊が主催して、11回生の留学生、コリー・ホウエル君やコロンバイン高校事件で息子を射殺されたトム・マウサーさんを迎え、講演会をしました。代表の砂田向壱さんは、銃器製造責任を追及して米国裁判史上初の勝訴を勝ち取った、原告団唯一の外国人です。私達は安全・安心な子供達の未来のために、武器を安易に持ってはいけないことを訴え続けています。
おととし美恵子さんは、米国各地を訪問しました。ホストファミリーだったヘイメーカー家に、日本ルイジアナ友好基金で来日した顔なじみの若者達が、ぞくぞくと集まってくれた時、『来日した学生達、それらの学生達に感化された人達がきっと米国を変えていく核になる』と信じることができたそうです。彼女もYOSHIの会も、世界の紛争を解決していくには、地道な草の根の異文化交流こそ最良の道だと考えています。けっして憎しみを連鎖させてはいけないと考えています。
3.中国での中学・高校の教師と、中国国際放送局勤務の体験
さて3つめの話です。1986年から1988年にかけて、私は2年間、中国安徽省の蕪湖市で中学・高校の日本語教師をしました。私立ではありましたが、江沢民政権下の学校で、1200人の生徒全員を引率して、全国重点教育地点である南京虐殺記念館に参観に行き、子供達がどんな歴史教育を受けているか、目の当たりにしました。日本軍の、中国人百人切り競争の場面を描いた教科書を見ていた生徒が、私が近づいた時、本をそっと机の下に隠したというようなことも経験しています。
実は私の父は、7年間、軍人として中国に駐屯していました。父の青春の姿が、今、国際協力とか、復興支援という名で、武器をもってイラクに行っている自衛隊員に重なります。私の息子が小学校の6年生の時、父に「戦争はどうしておきるの?」と尋ねました。父は、何故戦争に行くことになったか、戦地で何があったのか、手紙を書き送り、コクヨの便箋343枚になりました。こんなくだりがあります。
「家を捨て難く居残った婦女子に情けをかけ、そのままにした為、寝首をかかれて死んだ兵隊もあった。又家の隅に一段になって隠れていた婦女子を見つけ始末に困った。やむを得ず銃剣で全員を刺し殺さねばならぬ。この先、上海市の掃討作戦の様子は悲惨そのものであった。」「一番可哀想であったのは、一団の中に若い母親が子供を抱きながら、泣きながら助けを求めているのを、機関銃の犠牲になった光景である。これも脳裏に焼きついている」。今年の8月15日に、この父の手記を「私は戦争から生きて帰った」と題して出版しました。ごく普通の人間が、国家によって、まじめに鬼にされていく過程を、多くの若者に読んでほしいと思っています。
私の長男は、高校卒業後、中国に留学しました。そして現地の家庭にしばしば招待されて、温かいもてなしをうけるうち、張君という親友ができました。私の夫が保証人となり、彼は我が家にホームステイしながら大学に通うことになりました。彼が来日して4ヵ月目、父が亡くなりました。長男は留学先の東北からはすぐに帰国できず、葬儀には張君が孫の代表を務めることになりました。棺を先頭で担いだのは、かつて父が、憎い敵国として戦った中国の青年だったのです。彼は日本で就職し、結婚し、一児をもうけて、私どもの家族として、私の身辺で暮らしています。
何故父は中国の人たちを殺したのでしょうか。私の体が中国の人たちの血と涙でできていると思う時、耐え難い辛さに襲われます。「戦争だったから仕方がない」と私は言えません。しかたがなかった「戦争」を始めたのはいったい誰だったのでしょうか。今、日本はじわじわと戦争をしてもいい国になりつつあると私は感じています。「テロリストをやっつけて世界の安全を守ったのだ」、「国際貢献のために立派に死んだのだ」、「防衛のために殺したんだ」などと、過去形で語られることになるかもしれない人々を日本から送り出しては、戦争の反省の中から生まれた私が生きている意味がありません。私が私として、人々の心の中に届くために使う言葉は、私が長い歴史の一瞬間、生きた意味があるように使わなければなりません。
1999年から2002年まで、私は北京の中国国際放送局の日本語部に勤務しました。世界38ヶ国から集まったスタッフも含めて1600人の職員を擁するラジオ局です。仕事をする中で、私は「紫金草合唱団」という南京虐殺事件犠牲者の鎮魂と贖罪をテーマにした合唱組曲を歌う、日本のボランティア合唱団にめぐり合いました。南京の紫金山のふもとに咲いていた紫の花の種をわずかに手にとって持って帰った兵士が、黙々と日本の野に咲き広げて行ったという、実話に基づく物語です。現在日本各地に1000人の団員がいて、200人、100人という団員が南京や北京で公演を成功させ、中国の多くの年配者や若者達と交流し、中国のメディアで大きく報道されました。上辺だけの公式的な友好ではなく、歴史の事実を率直に詫び、共に平和を語り合うのに、実に65年の歳月がかかったのを私は南京や北京で見届けました。今年、重慶や北京で露呈した、サッカーのアジアカップでの戦争の残像は、まだまだこれから繕っていかねばなりません。人間の体や心を壊すのは一瞬で事足ります。それを修復するには気の遠くなるような年月が必要です。
<最後に>
憎むことより愛することを私達は選び取るべきだと思っています。服部剛丈君は16年の生涯をかけて、そのことを教えてくれました。私の父は83年の生涯でそれが出来なかったので、私が私の生涯をかけて、愛することを選んでいこうと思っているのです。首相が何と説明しようとも、メディアがどう報道しようとも、人を殺す武器を持った自衛隊という名前の兵士が日本から外国へ派遣されることは、私のこの決意にまさしく反し、私の平和に暮らす権利を侵しています。一刻も早い撤兵を望みます。
原告意見陳述書
2004年11月3日
名古屋地方裁判所 民事第6部合議係 御中
名古屋市南区明治1−5−12 みどりの家
私は祖父、祖母の時代に朝鮮半島から日本に渡ってきた在日コリアンの3世です。私は自衛隊のイラク派兵を「人道支援だ」という日本政府の主張が真実ではないため、さらに、イラクに住む人の要求に沿わないイラク人を苦しめる行為だと思うため、イラクへの自衛隊派兵を止めていただきたいと思っています。昨年4月、アメリカがイラクに大量破壊兵器がある疑いで日本の小泉総理はアメリカのイラク攻撃を支持し、12月には自衛隊をイラクに派兵しました。しかし最近、大量破壊兵器は見つからなかったと正式な調査結果がでました。多くのイラク人を殺し、イラクの町を破壊し尽くしたアメリカの攻撃について、日本政府は攻撃を支持してしまったことを反省すべきです。しかし、日本政府の見解では疑いを持たれる側に責任があると自己正当化していました。このような自分たちの過去の行為を正当化し、消そうとする行為は今までの戦争でもありました。私の存在をも脅かすこのような行為を伝え、自衛隊イラク派兵の撤回を要求したいと思います。
1.2000年から肌身で感じてきた戦争への流れ
私の母方の祖父は第二次世界大戦中に、父方の祖父は戦後、朝鮮半島から日本へ渡ってきました。当時、朝鮮は日本の植民地だったり朝鮮戦争の頃だったりして、日本に行けば仕事がある、と祖父は連れ合いを残したまま日本で仕事を探しました。私の父方の父親はボロ布や鉄くずを集め、日本人がしない仕事の隙間をぬって生活をしていました。母方の父親は仕事場で日本人から差別を受け、毎晩お酒に酔っ払い家族に当り散らすことで発散していました。どちらも、当時の在日朝鮮人家庭によくある状況でした。戦時中は国が自分たちを守ることはないので、家族で岐阜の山奥に疎開していました。戦後はヤミ米やさまざまな自営業など、人がしない仕事・自分たちで作れる仕事をして、人権が保証されない時代から日本社会でたくましく生きてきました。
私は2000年に石原東京都知事による「三国人発言」の事件が起き、直接自分の両親に昔の話を聞くまでこのような歴史を知りませんでした。石原都知事が、「日本人にとって厄介な、迷惑千万な外国人のことをかつて第三国人と表現した(2000年4月12日記者会見より)」とし、在日朝鮮人、中国人と現在の不法滞在外国人による犯罪との関連を強調し、自衛隊の出動訓練につなげました。また新しい歴史・公民教科書をつくる会が“従軍慰安婦”や、日本のアジア侵略についての事実を正当化した教科書を、中学・高校に採択してもらうような動きが目立ち始めました。その頃、私は在日朝鮮人としてのアイデンティティを確立させつつある27歳の社会人でした。
そんな大人になってから私は生まれて初めて直接的な在日差別を体験しました。インターネットで在日朝鮮人に対する強烈な差別発言が書き込まれている掲示板に出会ったのです。会ったことのない人に「チョン」だの「第三国人」だの、「韓国に帰れ」だの、「くさい」だの、「怖い」だの好き勝手に書かれていました。「半島人」「鮮人」など、どういう意味かわからないけど、普段使うことの無い言葉で明らかに侮蔑して私たちを呼んでいるのを見て、怒りに震えました。どうしてこんなこと言われなくてはならないのか。自分に心当たりがあっても傷つくのに、全然根拠がないことを言われて傷つかない人がいるでしょうか。
このような発言を引き出したのは誰でしょう?石原都知事がわざわざ「第三国人」や「シナ人」と連発するのはこのような感覚を日本人に引き出させるためではないのでしょうか?私は明らかに石原都知事は不法行為者に対してのみに使ったのではなく朝鮮や中国の人々全体に対して、植民地時代から現在まで続く反感と憎悪の意味を込めて使っていると感じます。もしそのような意図がなかったとしても、インターネット掲示板でそれを引き出させた責任を都知事は負う役にあるのではないでしょうか?しかし、彼を含め問題発言をした政治家は口を揃えて「自分たちはそういう意図はなかった。」「過去フツウに使っていた。」「その言葉自体に差別的な意味合いはない」と自己正当化し、責任を負わないでいます。
その後も、2002年9月の日朝対談で明らかになった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)拉致事件を機に北朝鮮へのバッシング報道が加熱し、それと伴い、在日朝鮮人への暴力・罵詈雑言も今までにない規模になりました。朝鮮学校で母国語を話す学生たちも、日本名を使い在日であることをカミングアウトしていない在日コリアンも、自己の存在への不安を感じ、日本社会での暮らしに身の危険を感じました。また、在日3世以降の在日コリアンはなぜ日本に自分たちが居るかの経緯を知らないので、このような過剰なバッシング報道によって自己否定し、日本での幸せな未来を想像できなくもなりました。これは在日の過去を消す行為です。拉致事件を含み、戦争中の事件は、韓国側にも、北朝鮮側にも、日本側にも、犯罪の過去があり公にして精算されるべきだと、私は思います。しかし、政治家がこのような差別発言を垂れ流し続けることで、日本に住む在日コリアンは日常生活に多大な迷惑と精神的苦痛を受けています。また、このような外交戦略の影響を受ける在日コリアンは、いち早く「戦争の危険」を察知する存在になっているとも言えます。戦時中の歴史を新たに塗り替えられ、今度は北朝鮮への攻撃・戦争へという必然的な流れを肌で感じとっているのだと思います。
2.消されようとしている歴史とイラクで日本が暴力を繰り返そうとしている現在
このように消されようとしている戦時中の「過去」として日本軍「性奴隷」(従軍慰安婦)にされたハルモニたちがいます。私は沖縄や在日や日本の若者と2003年沖縄で日本軍「性奴隷」にされた朝鮮人「裴奉奇(ペポンギ)」さんの足跡を辿る勉強会を行いました。沖縄には100箇所以上の慰安所が過去作られ、裴奉奇が過ごしていた元慰安所を訪ねたり、彼女の過去の証言ビデオを見ました。年老いてからずっと面倒を見ていた在日2世の夫婦からも話を聞き、裴奉奇さんがどれほど心細く、すさんだ気持ちで戦後生活していたかを知りました。死ぬ前には、在日2世の夫婦や、韓国で日本軍「性奴隷」として、公に訴えを始めたハルモニたちと連帯し、自己尊重できるような生活を取り戻されて「自分のような目に二度と遭わせてはならない」ということを伝えていました。私は自分で出かけて現場に近い証言を聞いていくことで、「戦争」という暴力で、日本軍「性奴隷」とさせられた女性が身体的には重い疾患をもち、精神的には自分に誇りを持てず、人生めちゃくちゃにされた歴史を実感しました。そして私の存在の根っこであるハルモニたちにとても深い苦労と悲しみを見出しました。
自分たちの過去を聞き伝えで調べていくことや、戦争の事実と向き合う経験から、そのような戦争の被害者を生み出す行為に私は絶対加担したくありませんし、もちろんこのハルモニたちのような戦争の被害者に私は絶対なりたくありません。自衛隊をイラクに派兵し、アメリカの支援をしていることは、私がとてもしたくないことです。日本の自衛隊がイラクに行ったことが、偶然にせよ、必然にせよ、イラクでの日本人攻撃につながり、日本人の命が狙われる引き金になりました。また、アメリカ人兵士からイラク人捕虜に対して「虐待」と称して、ハルモニたちに行われたような「性暴力」が行われています。そのような行為に加担する可能性がある限り自衛隊派兵を私は許すことはできません。
3.日本政府は私たちの声を聞きなさい。
だいたい、政府というのはそこに住む市民の声を聞いて、生活のサポートや行政サービスをするための働きをするべきで、政府の利益(いわゆる国益)のために市民の生活が不便になったり、安全な生活が犯されるのはおかしいはずです。そこに「国籍」とかは関係ありません。外国人はどこの国でも必ず何割かは占めるもので、どんどん国外へ移動する人間の数は増えるはずです。私が2000年からずっと在日外国人として被害を受けて気づいたことに、責任がある政治家を選挙で選ばないという権利が私たちには持たされてないということです。自分がただ足を踏まれているだけということに悲しくなります。私の祖父たちが日本に来たのは自分の意思だけでなく、政府の思惑と歴史的背景があります。同様に今も外国人はいろんな背景で日本に移動してくるのです。だから、日本国籍を持っているかどうかで考えるのではなく、そこに暮らす人たちの声を聞いていくことで日本が経済的にも総合的にも良いコミュニティを作っていくことができるのだと思います。
私たちの声は少数派ですが、私たちの思いを無視しないでください。そして同じく日本政府はイラク人の声を聞いて下さい。自衛隊が必要だと言っていますか?当事者が必要だと言っていますか?
4.私が日本で訴える理由
私は日本社会での「戦争の危険」を肌で感じたとき、いざとなったら国外に逃げて生活しようと思っていました。戦争の流れを止めれないかもしれない。そして私は身軽だったからです。しかし今、私は重度心身障害を持つ人たちの施設で働き、ともに暮らしています。私は逃げることができるけど、この人たちは平和でなくなったら守ってもらえないし、自分たちで逃げることもできません。私の母や在日のハルモニたちも逃げれません。私の沖縄の友達は米軍基地が原因でどんどん危険な目に遭っています。
私は日本でこの人たちと幸せに暮らしたいです。
そのような社会にするために、ここで反対の声をあげます。裁判所は多数決では意見が通らなくても、その一人にとってとても大事な問題についてちゃんと正しい判断をとれる機関だと認識しています。国籍に関わらず訴えることができ、その訴えを正面からとりあげるところ、その人の人権や権利や苦痛などを公正に判断することころであると思います。私の権利と訴え、またイラクに暮らす人たちの権利や訴えなどもしっかり考慮し、正しい判断をしていただきたいです。
蛇足かもしれませんが、日本政府に対しても自衛隊がイラクに人道支援という名目で派遣されたまま多国籍軍に参加すると決めたことなど、裁判所がきちんと判断し、政府に間違った政策であると言うことも大事な裁判所の役割であると思っています。
以上、私の立場から自衛隊イラク派兵の撤回を要求する理由を述べて、私の意見陳述とします。
原告意見陳述書
2004年11月5日
名古屋地方裁判所 民事第6部合議係 御中
五 井 泰 弘
私は、民間会社に勤務するかたわら、アフガニスタンで医療援助をするNGO「ペシャワール会」の一員として活動をしてきています。昨年の暮れ、アフガニスタンに入り現地の人たちと活動し日々を生活する機会を得ました。そこで体験したことは、イラクに自衛隊が派遣されたことで、私そしてアフガニスタンの人々がいかに命の危険にさらされ、且つ精神的苦痛を受ているかを痛感しました。イラクもアフガニスタンも同じ次元で関連していることがよく解りました。
私は一刻も早く、イラクからの自衛隊派兵が中止されることを願い意見を述べます。
1、日本国民の意志とかけはなれた自衛隊派兵
来年1月のイラク国民議会選挙を前にして、先日の10月26日、朝日新聞の朝刊に世論調査が掲載されました。それによると、12月期限切れとなるイラクへの自衛隊派遣を「続けること」について63%が派遣延長に反対。 小泉首相が国会で「アメリカなどの武力行使の支持は正しかったか」については67%の人が納得できないと答えました。
これまでも各世論調査はでていましたが、イラク開戦から1年7カ月余が経過し、初の議会選挙を控え、政府は、「復興は進んでいる」と強調している時期での世論調査であり注目に値するものです。
こうした高い国民の反対の意志は、憲法違反で、平和憲法をねじまげて派遣することが誤りであり、いかに国民の主権を侵害しているかを示す明白な事実といえます。国民の意志に反した行為は個人に精神的苦痛を与えることになるのです。
2、イラクの現情はアフガニスタンと同じ道を歩んでいる
私は、昨年暮れの12月「ペシャワール会」の一員としてアフガニスタンを訪れました。少しペシャワール会のことに触れますが、ペシャワール会は中村哲医師を中心にパキスタン・アフガニスタンで20年余にわたり難民の医療活動をはじめ、今では飲料用の井戸を掘ったり農業復興用の用水路建設なども行っています。私たちは活動する前提として、その国の文化や宗教を尊重し、現地の要望と実情に合ったやり方で行います。つまり押し付けの支援ではなく、あくまでも主人公は現地の人たちで、私たちはサポートする役割であることが大事なのです。今では医療関係で160名、用水路建設や農業復興で600名の現地スタッフと日本人15〜20名が働いています。
2001年10月の米軍のアフガニスタン空爆下では緊急食料支援を行い、国連やどこの国際支援団体よりも早く避難民に直接食料を届けることができました。団体の宣伝をしているようになりましたが、その後の復興事業を進めることができたのも、現地の人々から「復興のために共に汗を流した」ということに厚い理解と信頼が得られたからです。いかに信頼が重要で短い時間では容易にできないからなのです。
イラクの復興も自衛隊が出かけ、日本式スタイルで行えば反感を買い、危険が増すばかりなのです。
3、アフガニスタンの日本人への見方、イラク開戦後おおきく変化
2003年3月のイラクへの米英軍の侵攻とその後の自衛隊派兵は、アフガンの人々の日本および日本人に対する見方を大きく変えました。私がアフガニスタンに入った時はフセインが拘束された時期であったこともあり、その変わりようには驚きました。例えば、 パキスタン・アフガンでは日本人には親しみを持ち、陽気に話しかける。ヒロシマ・ナガサキの原爆からの復興をよく知り、褒めたたえる。それが話さなくなり、必要以外会話はしなくて、また「日本はイラクに自衛隊を派遣した国」と鋭い目をする。 バザールには日本人単独では行けない、現地の良く知るスタッフと行動。それでも危険で行けないバザールもあって以前にはなかったこと。 ペシャワール会の病院の門前にパキスタン警察の警護が配置された。しかし守られることは現地の不信を生むのことになるのでで断る。 アフガニスタンへは入国手続きが厳しく時間もかかる、2時間程度は要する。 男の服装は以前は、わりと自由であったが、今はチトラール帽とシャルワールカミーズを着て現地の人と同じ服装で生活し行動する。 車はスピードあげて走る(悪路でも時速100km)、夜の移動もする。 団体の車輛に書かれた日章旗と「JAPAN」の文字を消す。狙われれ標的になる可能性があるため。 米軍ヘリからペシャワール会の用水路建設現場に機銃掃射受ける(誤射?)。毎日、米軍ヘリと遭遇。など。
以上のようにアフガンの現状は、米軍に対する怒りはもちろん大きなものがありますが、日本人への感情も情意投合から悲憤慷慨といったところです。
このことは、私たちの活動に多くの制約と危険を生み出したことは明確です。当地の治安状況はペシャワール会活動20年余で最悪になっています。ボランティア活動とはいえ、イラクへの自衛隊派兵がアフガニスタンでの活動に多大な影響を及ぼしているのが実態です。
4、復興支援と自衛隊のセットに反発
イラク戦争開始以来、イラク人死者15000人と推定され、米軍死者だけでも1100人を越えました。空爆、銃撃などで多くの罪のない人々が、毎日毎日、今の時間も死んでいるのです。アフガン同様イラクの人々が切実に欲するのは平和な町や村の回復です。 治安は悪化の一途で復興にたずさわる国連組織や赤十字、そして日本を含む各国のNGOメンバーへの襲撃、殺害が頻発しています。「人道支援に行ったのに」といぶかる人もいると思います。現地が反発するのは復興援助と軍事介入とがセットで一体となっていることが問題なのです。
日本の世論調査で民意と掛け離れていることがはっきりしているのと同様、現地のニーズと行われていることが乖離していることから、今の事態が起こっているのです。
5、まとめ
2004年7月ペシャワール会の招きで現地アフガニスタン医師ジア・ウル・ラフマンさんが来日。名古屋を訪れ「貧しい難民への医療活動の継続」を呼びかけ、「早く平和が欲しい」。そして、なによりも「イラクもアフガンも外国ではなく、その国の人達が自ら国の復興と建設を造っていくしかないのです」が強い印象を受けました。
イラクへの自衛隊派兵は日本への敵意が生まれ、日本人が攻撃の対象になるのです。サマワの自衛隊宿営地の着弾はその証拠です。
平和は軍事力以上の力があります。国是である平和憲法をかなぐりすて、平和主義を非現実的だと軽るんずことは許されないものです。
政府は12月の自衛隊派兵の継続を止め、イラクからの撤退を求めます。このことはイラクの人々にとって望まれることであるし、日本の平和憲法を守り、個人の精神的、肉体的被害および経済的損害からも守ことです。
是非、私の意をくみとって頂き、理解あるご判断を期待します。
下記の中日新聞記事。09年8月
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あなたは04.11.14より人目のお客さまです。