NY金魚さんへのお手紙 − 格差社会の戦争と日本人の生き方
NY金魚さん、こんにちは。ニューヨークも寒いですか。冬のニューヨークというのが、これがまた格別にいいんですよね。あの摩天楼の下の舗道からシューと蒸気が立ち上って、そこをコートを着たビジネスマンが黙々と早足で歩くところが絵になります。前の記事についてですが、1/29の藤沢の事件と1/28の仙台の事件はテレビ朝日の「報道ステーション」でも放送していました。二日連続で凄惨な事件が起きて、特に仙台の方は、まさに格差社会の問題そのものだと思いますが、取り上げているBLOGが他になく、記事にしようと思って調べたのでした。そうすると次から次へと日本各地で起こった悲惨な家族心中の記事が出てきて、暗澹たる気持ちを抑えられなくなり、精神的負担の面でも、また記事の体裁や効果の面でも、日本語より英語で表現した方がいいのではないかと思った次第です。


私は、やはり、これほど惨い一家心中や家族殺しの事件が毎日起きている国は世界中に他にないのではないかと素朴に思うのです。世界史的にもこんな国が歴史上に存在しただろうかと思ってしまうのです。日本の自殺者の数が年間3万人で、人口一人当たりの数で換算すると先進国の中で飛び抜けて多いという話を聞いたことがありますが、この3万人の中には、少なくない割合で、こうした一家無理心中のケースが含まれているのではないでしょうか。1/10の八戸や1/14の徳島の事例は自殺の統計の対象にはならないでしょうし、八戸の例は無理心中にもならないのでしょうが、問題の本質という観点から見れば、どの事件も基本的には同じ問題であるはずで、中間項を幾つか飛ばして最後の結論を先に言えば、日本における新自由主義の犠牲であると言えると思います。生活苦の問題や介護疲れの問題があります。とても個人の発狂とか、自己責任で片付けられる問題だとは思えません。

1/15の山梨の事件も、記事を上げた後で調べたら、やはり無理心中であり、次男のひきこもりの問題だけでなく、長男が勤め先の仕事を失っていた事実がありました。そう言えば、12/24の「NEWS23」の『生活破壊』特集も、認知症の高齢の母親を介護していて極貧に陥り、親子で心中を図って一人だけ失敗した例が取り上げられていました。一口に新自由主義の社会では弱い者が追い詰められると言いますが、その「弱い者が追い詰められる」実相は、個人単位ではなく社会単位に追い詰められるのですね。企業とか地域とか家族のレベルで追い詰められて、持ちこたえられなくなって潰されてゆく。企業なら倒産、地域なら財政破綻と合併と病院や学校などの行政サービスの廃止、家族の場合は一家離散とか無理心中。最後の最後は命を奪われるところに突き詰まる。要するにこれは「戦争」ですよね。新自由主義は弱者の国民の生命を要求する。無理心中して死に滅ぶことを要請する。生き延びることを許さない。

自殺で責任をとらせる。最後の最後の最後の人間の尊厳を守らせる代わりに命を奪い取る。山梨の家族のことを思いますが、きっと何とか四人で生き延びようとしたはずです。年を越したのだから、次の年を越すまで何とか持ち堪えようとしたはずです。でも、それができずに四人で死ぬ道を選んだ。仙台の例とか山梨の例を見ると、家族をナイフやナタで刺殺あるいは斬殺して、その後に家に灯油を撒いて放火しています。あれを見ると、何だか、戦国時代の合戦に敗れた武将と家族の姿そのものではないかと思えてきますね。小谷城の浅井長政とか、北ノ庄城の柴田勝家とか、大坂城の淀君と秀頼とか。日本人の死に方と言うか、滅び方の切なさのようなものを感じ、時代を超えた普遍性を感じ、人が生きて死ぬということはいつの時代も同じなのだと思わされます。それと同時に、その死が美学にも何にもならない現代の格差社会というものについても思いを新たにします。それが美学にならないのにはきっと理由があるのでしょう。

それは、戦国時代の日本人にはそうした生き方しかできなかったけれど、現代の日本人には、その気になれば、本気になれば、立ち上がって、新自由主義を政治的に打倒して、国家の体制を変えることができるから、だから逆説的に、その死(無理心中)が美学にはならないのです。犠牲ではあっても必然ではない。時代はそれを美学や必然としては肯定してくれない。この時代のわれわれがやるべきことは、『ワーキングプアV』に出てきた釧路の女性のようにギリギリで頑張ることで、そこから落ちれば、次は池袋の路上生活者の彼のように身を窶しても極限の中で希望を捨てずに頑張り抜くことで、そしてどのような惨めで極貧な状態に落ちても、新自由主義に対して立ち向かって、それに戦いを挑んで刺し違える覚悟を持ち、諦めずにその機会を窺い続けること、死ぬ前に一戦交えて歯を立てること、新自由主義の体制転覆を図ること、なのだろうと思います。

私は、昨年末の記事で「こんな腐った政府は一刻も早く打倒しなければならない」と書き、コメント欄で読者から過激すぎる表現に苦情を頂戴しました。私自身も、まさかこの年で、自分の口から「政府を打倒せよ」などと過激な言葉が漏れ出るとは思いもしなかったことです。学生の頃、周囲にそんな言葉を言っている仲間に対して、冷ややかな視線を送っていたのが私でした。しかし、今の日本の政府は清朝末期の政府と同じで、後世の歴史に書かれるときは必ずそのように書かれるだろうと、私は確信を持っています。今の日本の一般大衆も、清末の阿片を吸っていた中国人と同じように描かれるでしょう。今の日本は林則徐や洪秀全のような人物の出現を待っていて、そうした「救済者」が出てくれば、仮に彼らの「挑戦」や「蜂起」が失敗に終わっても、歴史は彼らを英雄として記し残してくれることでしょう。松陰の倒幕の革命思想も、そう言えば、生涯の最後の最後のことでした。

1/11に「青森で起きた家族殺人事件」の記事を書いたとき、同じ問題を抱えた家族がきっと日本中に数多くいて、さらに重圧がのしかかれば、鉄板の下に置かれた果物の実の一個一個が重さに耐えかねて破裂するように、潰されて犠牲になるのではないかと思ったのですが、それから僅か3週間の間に、同じような家族の地獄図が次々と起こりました。これからも同じようなニュースが頻発するのではないかと思います。今週の「クローズアップ現代」は欧州特集で、国谷さんがパリやロンドンに飛んで、現在の欧州の環境戦略(カーボンマネジメント)の現状や教育向上の様子を取材して報告していました。これについては、機会があれば詳しく論じてみたいと思いますが、最初に総括的なところで感想を言うと、今のEU諸国の幹部たちの発言を聞いていると、まさに「社会主義」そのものと言うか、福祉国家の原理に忠実に従った政策論を滔々と述べるのに驚かされました。大企業の経営者も、大都市の市長も、政府の閣僚も。

彼ら欧州の指導者たちが、国谷さんを前に語っている環境政策や社会政策や教育政策は、日本では、政党で言えば社民党か共産党が言っている内容で、民主党の政策などよりもずっと左寄りの、福祉国家そのものの政治思想を堂々と言っているのを見て驚愕の思いでした。彼らは、それが今の欧州の常識で、これからの世界の常識なのだと胸を張っていました。現在の日本の常識では、竹中平蔵や田原総一朗などの改革派の言説が支配している日本の常識では、彼ら欧州幹部の言葉は「社会主義」の言葉以外の何ものでもありません。「クローズアップ現代」にはいつも感動させられますが、今週もまたもや感嘆させられ、時代が大きく変わっている現実を思い知らされたところです。けれども、それでは、前回の記事のような地獄図の日本の現実を、欧州幹部の語る福祉国家の理想に転換するには実際にはどうすればよいのか。欧州には市民革命と市民社会の歴史と伝統があって、その上で、同じく自分たちが作り出した資本主義の制御の必要と方法を心得ています。

日本では、きっと簡単には行かない。民主党は、われわれが格差問題と年金問題を国会で議論してくれと頼んだら、ガソリンの値段を下げてやるから応援しろと言って与野党対決の演出をし、「ガソリン国会で何が悪い」と暴論が飛んでいる間に、あっと言う間にガソリン税対決の旗を降ろしました。民主党のオーナーであり広報である朝日新聞は、「4月の暫定税率引き下げなし」、「解散は秋以降」と記事を書いています。ガソリン国会が急転直下で頓挫した途端、次のアジェンダは岩国市長選だと言う声が上がっています。どうも民主党系の「政治争点」に引き摺り回されるようで、心に響くものがなく、そうした行動提起に食欲が沸いてきません。山梨で一家心中した四人家族のことや、藤沢のマンションから二人の息子を放り投げた母親のことや、失業中である事実を隠すためにサラ金から借金して、それが返済できなくなって一家無理心中を図った仙台の父親のことが頭から離れず、それでは自分はその現実とどう向き合うのか、一番早く問題解決するにはどうすればいいか、その政治学的解答の方に関心と思考が向かいます。

長くなりましたので、今日はこのあたりで。
by thessalonike4 | 2008-02-01 23:30 | その他 | Trackback(1) | Comments(0)