このところの東京は外気は寒いが日中の陽射しに春の温もりを感じるようになった。岩国市長選挙は一週間前に終わって結果が出たが、この選挙について本格的に議論されるのは寧ろこれからではないかと思われる。きわめて意味の大きな政治的事件だったが、語られている言葉は実は少ない。岩国の中で何が起きていたのか、外からの関心が高いわりに、真実を詳しく伝えているものがない。二年前の住民選挙に遡って経緯と変容が追跡される必要があるだろう。政治学者の手による分析も必要なはずだが、現在のところアカデミーからは特に何も提供されていない。それがなぜ必要かと言えば、次は勝たなければいけないからである。次の勝利を得るために、この政治の過程を洗い直す必要がある。恐らく憲法改正の国民投票までに、この構図の選挙戦があと二度か三度あるだろう。同じ型に嵌ると負ける。
森田実が、HPの2/14の
記事の中で「
米軍空母艦載機の岩国移転を容認する現福田市長を支持した岩国市民に問いたい。今回、岩国市民は大きな過ちを犯したのではないか、と。(中略)移転容認派の発想の根底に、一部住民の犠牲の上に補助金をもらうという思惑がないと言い切れるだろうか」と厳しく書いている。ブログ左翼系の殆どが、市長選での岩国市民の選択について、「岩国のみなさまおつかれさま」と労いを言い、僅差惜敗の結果を褒め称え、岩国市民は大健闘したとか、結果に失望するななどと言っていて、私の感じ方と大きなズレがあったが、森田実の上の直言を聞いて、ようやく私と似た思いを持った者もいたことを発見できて安堵した。「アメとムチ」に負けた形のこの選択が、今後の岩国市と岩国市民にとって良い将来を招き導くはずがない。選択が招く厄災の責任は岩国市民が負わなければならない。
本当に「大健闘した」と言えるのだろうか。1月中旬から下旬頃、どうやら世論調査で井原陣営が劣勢に立っているという情報が流れ、危機感を感じた誰かが、「私にできることは何でしょうか」と可能な支援の具体策に思い悩む記事をBLOGに書いていた。私は、それを見て、これは違うのではないかと思った。本当は、外に支援を請う岩国市民が、「これをして下さい、あれをして下さい」と頼むのではないのか。人を送ってくれ、金を送ってくれ、物を支援してくれと外に依頼するのが本当ではないのか。そういう岩国市民が一人でもいて、インターネットで支援要請の情報発信をしていれば、雪崩のようにとは言わないまでも、俺も私もと、次々と支援を申し出るネット運動の渦が起きていたのではないかと思われるのである。岩国市民から特に要請もされないのに、外の人間がこれをするあれをすると言えば、それは「余計なお節介」の形になる。
どこかの時点で「
黄色のサイト」が立つだろうと思っていたが、結局、それは立たなかった。二年前の住民投票のときもそれはなかった。先週の「クローズアップ現代」で、オバマを支援する米国の若者たちの運動風景が取材されていたが、5人ほどのメンバーがアパートの一室にアップルのノートPCを持ち込んで、ネットの中にデータベースされた地区の名簿を見ながら、支持依頼の電話をかけまくっていた。選挙運動はITを使ってやるのである。日本ではいつになってもネットでの運動がハプンしない。岩国市長選は、結果はどうなるか別にして、ネットを使って運動するのに適した選挙だった。争点は明確だったし、井原市長は政党支持を受けてなかったし、岩国市民は国の恣意行政の被害者だったし、最もお誂え向きだったのは、マスコミが取材せず、情報が中央に届かず、岩国で何が起きているか新聞やテレビでは分からなかったことだ。
ネットの出番だった。ネットが政治で活躍する舞台だった。勇気を出してサイトを設営する人間が出てきても、無論、全国の右翼からの猛攻撃を受けただろうし、また、誹謗中傷趣味のオカズにして遊ぶ悪質なブログ左翼に足を引っ張られて大変だっただろうが、間違いなくその人間(岩国市民)は英雄になっただろうし、NHKの「クローズアップ現代」やTBSの「サンデーモーニング」の取材を受けていただろう。艦載機受入反対派住民の代表として「顔」の存在になっただろう。井原市長の声やメッセージは届いていたが、当の岩国市民の声を聞いた記憶がない。どこで発信していたのか。テレビに出てくるのは、「背に腹は代えられない」の論理で(今回は)自公候補に一票を入れた岩国市民の「本音」ばかりである。NHKを見ても、TBSを見ても、腑に落ちない感じは残るし、どうして僅か二年の間にこれほど市民の政治意識が急激に変化するのか不思議に思わされる。
実際のところ、若い自公候補が立候補表明した瞬間に、1月10日頃の段階で、そこですでに差は十分に開いていたように思われる。1月下旬から投票日までの二週間は、井原陣営側が猛烈に巻き返して票差を縮めていた過程だったに違いない。と言うことは、山口県の自民党側は二年間に着々と準備を整えていたのであり、デマや中傷も昨年の12月から始まったものではなかった。テレビ報道で、岩国市の商工会の幹部が井原市長のところへ行って、傲然と辞職要求を突きつける場面があったが、あれは昨年12月の映像だと思うが、商工会幹部は自信満々で、「次の選挙では必ず落とすぞ」と顔に書いていた。自民党側はデータを持ち、確実な自信があったのだ。民意は二年間の間に変わっていた。岩国市長選は岩国市民だけの政治戦ではなく、全国の市民の権利と生活がかかった政治戦だった。だが、その政治戦を局地的なものから普遍化するためには、
リーダーが要る。
カリスマが要る。
そのままでは、局地戦は局地戦にしかならない。局地化されれば負ける。各個撃破される。普遍化しなければ勝てない。全日本の市民が団結して臨まないと勝てない。憲法改正の国民投票も同じだ。土俵を日本国内だけに止めて戦うと確実に負ける。世界に支援を請い、世界中から人と金と物を集めないといけない。国内だけで閉じて戦えば、今回と同じ構図に嵌って必ず負ける。戦いを普遍化し、勝利に導くカリスマが要る。一国だけでは平和主義の理想を守り続けることはできない。万国の平和主義者と団結しなければ。
【沖縄米兵暴行事件】
新たに一稿おこすのも面倒な気分で、付録で恐縮だが、あの沖縄の米兵による暴行事件についても、ネット左翼の議論の中で違和感を感じた部分がある。いわゆるセカンドレイプの被害について、それを声高に言い上げているブログ左翼は、一昨年の9月に起きた京浜急行車内での痴漢事件について、その被害者の女子高生に対して口汚く罵る言葉を浴びせていた。刑事被告人の無罪を言いたいあまり、被害者の供述を頭から否定し、異常者呼ばわりして、被害者の人格を傷つける言葉を吐いていた。
京浜急行車内での事件は、逮捕された被告人が真犯人かどうかは別にして、被害者が実際に痴漢行為を受けた事実は間違いなく、被告人もその客観的事実を認めている。被害者が被害に遭った事実は誰も否定できず、未成年の被害者の心が大きく傷つけられたことは否めない。この事件の被害者は、夜遊びしていたのでも、アイスクリームを買いに行っていたのでも何でもなく、ただ移動のために電車に乗っていただけだ。そして、沖縄の事件でも同じように身柄拘束された被疑者男性は容疑を否認している。
沖縄の米兵も自分では犯行を認めていない。無論、この男が暴行したのは間違いないだろうし、弁護の余地は全くないだろうが、京浜急行の事件と沖縄の事件と一体何が違うと言うのだろうか。何故、沖縄の女子中学生に対しては、その「油断」を言う右派メディアのセカンドレイプを攻撃するのに、京浜急行の女子高校生に対しては「冤罪捏造」や「異常行動」を責めて非難できるのか。京浜急行の事件の女子高生に対するブログ左翼の暴言こそ、まさに悪質きわまる人権蹂躙のセカンドレイプそのものではないのか。
在沖米兵がやれば性暴力、反政権側の言論人がやれば冤罪。右派メディアの被害者侮辱はセカンドレイプ、自分が性犯罪被害者を侮辱するのはお構いなし。頭のてっぺんから爪先までイデオロギーに染まった人間というのは、こういう人間のことを言うのではないのか。こういうイデオロギーロボットが護憲とか九条を言っているから、護憲や九条がグロテスクなイデオロギー問題になり、国民の権利や生活の問題にならないのだ。説得力が届かないのだ。「ダブスタ」などという簡単な表現では済まない深刻な問題がある。
山口母子殺害事件も同じで、あれ以上悪質な性暴力事件はないと思うが、同じブログ左翼のジェンダー主義者たちは、被害者の名誉と人権を傷つけ続けている安田好弘の「ドラえもん」弁護を支持し続けている。悪性のイデオロギー的倒錯としか思えない。