100円ショップはこれからどうなるのだろうか。梅雨の湿った空気の中でそんなことを考える。今の原油価格と原材料価格の高騰の波をかぶった後、100円ショップは店頭の商品を100円の定価のままで据え置くことができるだろうか。あの店へ足を運んでいつも思うことは、
どうしてこの商品がたった100円で作って売れるのだろうかという驚きと疑念である。そしてその気分は決して積極的なものではない。いいものを発見したという明るい気分ではなく、気分は暗く重く沈みこみ、レジに商品を持っていく頃は塞がれて憂鬱になっている。感じの悪くない若い青年がいるのだが、どうも顔を合わせたくなく、彼の顔を正面から見ることができない。時給は幾らだろうかとか、そういう方向に想像が向かうからであり、店を出てからも足どりが重くなり、その気分が引きずって、次の機会に店に入るまでに長い時間が空くのである。あの業態や経営に対して、私はどうしても積極的な言葉で評価することができない。
吉野源三郎の
『君たちはどう生きるか』の中に、「人間分子の関係、網の目の法則」という件がある。コペル君が、オーストラリアで生産されたラクトミルクが日本に輸入されて幼かった自分の口に入るまでにどれほどの人間が介在しているかを考え、社会的分業と商品生産関係の認識に辿りつくという有名な話だが、100円ショップの陳列棚に並ぶ品物を手に取って、私はコペル君と同じようにその商品の背後にある無数の「人間分子の関係」を想像しながら、そこに編みこまれている人間の犠牲と苦汁に溜息が出るのである。こんなものが100円で売れるはずがない。100円で売ってショップが利益を出すために、生産者は一体幾らで卸しているのか、生産者に事業利益は出ているのか。ガソリン価格が上がり、運送コストが上昇し、製品材料の仕入価格が上がり、事業者は現状の卸売単価をキープすることができるだろうか。想像すると修羅の地獄が見える。無理と不可能という言葉しか浮かばず、私の頭の中で「網の目の法則」は破綻、消滅する。
100円ショップが町の一角に出現したとき、もう10年ほど前だろうか、何か物珍しい雰囲気が漂って、「へえ、これが100円」と店内をうろつく市民の感覚はむしろ趣味のショッピングに近かった。現在では100円ショップの経済は人々の趣味の需要ではなく生活の需要となって地域社会に根を下ろしていて、そこで日用品を買い揃えている人たちが層として分厚く存在する。低所得が100円ショップを前提していて、この市場経済がなくなれば生活に影響を受ける人が少なからず発生する。100円ショップというのは現代の格差社会の象徴であり、新自由主義の市場経済の本質的な一面があらわれている。金融市場で株式や商品をトレードしてマネーを増殖させ、巨万の利益が瞬時に新自由主義者の懐に入っている裏側で、100円商品の原価と採算に苦悩する生産者の嘆きと涙があり、100円商品で日用品を買わなくては生活ができない貧困者の絶望と辛苦がある。しかし、私が考えるかぎりでは、この100円ショップは恐らく経営を維持できない。コストを価格に転嫁するしかない。
そうすると、100円ショップは200円ショップになる。けれども、200円ショップになると、それでは商品を買えなくなる人が出てくる。ジレンマとなる。論理が飛躍するかも知れないが、新自由主義の市場と経済の矛盾は100円ショップのジレンマに象徴的に噴出するように見え、最早、切り下げ切り詰める余地を失い、余地を失うことで経済を支える基盤を底が割れるように喪失することになるのではないか。これまでは、ひたすら原価を安くすることでこの経済を維持してきた。労働者の賃金を削り、下請けの仕入を切り下げ、材料を中国から輸入することでデフレ・スパイラルの全体経済を安定的な軌道に定置させ循環させてきた。原材料価格が上がって収支を圧迫するのだから、企業としては採算のためにはさらに人件費を切り詰めたい。派遣会社に費用縮減(派遣労働者の賃金切り下げ)を要求し、派遣会社を競争させて安いところに切り替えようとする。しかし、労働者は生身の人間であり、物価が上がれば賃金を増額してもらうしか生活を維持できない。原材料高騰は新自由主義経済の循環の前提を掘り崩している。
竹中平蔵は、デフレ・スパイラルが止まらない間はゼロ金利政策を維持しなければばらないとか、デフレ・スパイラルを止めることが経済政策の第一だとよく言っていた。だが、その論理はどこかに怪しげなところがあり、聞いていて不審に思うことが多かったが、誰もそこに疑問と追及を入れる論者がおらず、私もただ聞き流していた。本当は竹中平蔵の新自由主義の経済政策の遂行にとってデフレ・スパイラルは前提であり、むしろその循環を止めないように全体をオペレーションしていたのではないか。ゼロ金利の円が長期大量に供給されたために、欧米の金融資本はそれを投機マネーに使ってあぶく銭を儲けた。先週のTBS「サンデーモーニング」では、寺島実郎が英国のヘッジファンドから言われた話を披露して、原油市場に流入している投機マネーの四分の一がゼロ金利で日本から調達された資金であると言っていた。原材料高騰の経済的現実はゼロ金利続行の大義名分を失わせたが、次はどういう手口を使うのか。不況到来で企業環境が悪化したからという理由づけでゼロ金利を維持するのか。このあたり、森永卓郎はどう分析しているのか。
新自由主義経済の循環を阻害し途絶させる要因が生じたからと言って、市民の生活がよくなる前提が生まれたわけではない。それは逆で、現在でも困窮下にある市民生活を維持したり改善したりする条件そのものが崩落したというのが資源価格高騰の真実だろう。今、新自由主義の側が急いで対策に動き始めたのは移民政策で、少子高齢化対策とか若年労働力不足解消を口実にして一千万人の移民労働力を海外から受け入れる構想が立案されている。その先頭に立って旗を振っているのが中川秀直で、バックについているのは竹中兵蔵である。間もなく自民党の中に政策推進本部が立ち上がるという迅速さで、今年中に法案化作業を終えて、来年の通常国会に基本法案が提出されるかも知れない。100円ショップに行くと、外国人労働者がよく買い物をしている光景に出くわす。われわれと違って、彼らの感覚は「安くてよいものがたくさんある」というものだろう。4年前に『
いま、会いに行きます』の書評を書き、これは「新しいプロレタリア文学」だと私は言った。今の町は夢がなく、100円ショップとファミレスとTSUTAYAとユニクロばかりが増えている現状を嘆いて溜息をついた。
そしたら、TSUTAYAもユニクロもすでに今では上質な消費生活の部類ではないかという反論のメールがあった。4年経ち、その反論者の感覚と私も同じになった。ユニクロの衣料品を安価で粗悪という意識は今はない。あれが「普通」のレベルに見えてきた。昔だと、JPRESSとか、NEWYORKERとか、その前の若くて金のないときでも、三峰とか、帝人メンズショップとか、TAKA-Qとかが「普通」のレベルだったが、今はユニクロのカジュアルウェアが「普通」のレベルになってしまっている。
秋葉原事件に関する投稿メールをご紹介する。
こういうメールを頂戴すると、ブログをやっていて本当によかったと心から思う。
【 名前 : MR 性別 : 男 】
この事件を見て酷く悲しい気分になりました。私も加藤と同じような境遇だったからです。背景を知る内に私は「孤独に食われたな・・・」と思いました。私は加藤と違って大した能力はありません。中学時代から不登校でしたから、能力を試す場もありません。ただ、そこから発生した親との軋轢という意味では同じです。「都合が悪くなって捨てられた」私もそうです。
親が嫌いで、自分が嫌いで、自信が無くて加藤と同じように自立しようとして、早くから一人暮らしをしました。恥ずかしいのですがいじめが原因の不登校なので、私は対人恐怖症です。正社員になんかなれるなんて考えられず(数回挑戦しましたがやはり続きませんでした)、選んだ職業・・・というか身分はバイト、派遣社員でした。これが間違いでした。
20種類以上の仕事をしました。郵便配達員、果てはあの社会保険庁の年金相談員(加入記録問題の時は大変でした)などの規制緩和路線の仕事にも手を出してしましました。自分に自信を付けようと思って、自分が好きになれるように、自立して一生懸命働いたのに、出たのは逆の結果でした。給料は安く、危険で不安定。長く続けても何の意味も無く、わずかな給料を稼ぐただそれだけの為に、フリーターだ派遣だと世間に蔑まれながら、ただ独り、友だちも恋人も意味もなく生活費との追いかけっこ続けた3年の日々でした。
得たものといえば、むやみに重ねた年齢だけです。能力以外で私が加藤と違う幸運な点は私は親元に帰れたという点だと思います(断腸の思いですが)。正確には、私が家を出ている間に父はリストラ食らい、持ち家がなくなってしまったので、私は近くにアパートを借りて飯と風呂だけ親に世話になっているだけですが、それでも、食費や銭湯代がかからないのはすごく助かります。
私は未だに孤独で無意味な日々を送っていますが、まだ明日はあります。明日があるから根拠も無く可能性を信じて、何とかしようと出来るだけ前向きに頑張れます。でも、加藤のように帰る場所もなく、突然解雇を通知され、明日すら断たれたらと思うとゾッとします。加藤の親に対する憎悪はよく分かります。いいように操って、ボロボロにして、都合が悪くなったら「お前を思ってやったことなのに」と被害者面で「別なの」に賭ける。子供は親のおもちゃじゃありません。
今の世の中、普通の人間を化物に変えることなんか簡単です。苦しんでいる時に差し伸べるべき手を引き、虚無感を利用して無意味な労働の道具に仕立て上げ、嫌というほど絶望と孤独を味あわせて、憎しみの塊にしてやればいいのですから。