昨夜(8/17)放送されたNHKスペシャルの「
日本軍と阿片」は納得のできる番組だった。画期的な現代史番組と言ってもいいだろう。NHKらしさやNHKのよさはこういう番組にあり、受信料と引き換えの価値がある。制作には入念な調査と取材が行われ、時間と費用がかけられている。取材地域は、ジュネーブ、米国、台湾、中国大陸と広範囲に及び、中国の中でも、瀋陽、上海、内蒙古、山西省と各地にカメラを入れている。本格的なドキュメタリー番組の取材。最初に思ったことは、もし昨年の参院選で安倍晋三が勝利していれば、この番組の制作は企画段階で横槍が入って潰されていただろう、あるいは、スタッフが自粛して企画の実現には至らなかっただろうということである。右翼の安倍晋三が退陣して、福田内閣に変わって、日本政府の基軸が対中平和外交路線に切り替わり、ようやくNHKがNHKらしい報道番組を作れる環境を取り戻し始めた。そう思えるほど、この番組は歴史に鋭く斬り込んでいて、日本の現代史の恥部を見事に抉り出していた。
関東軍や中国に侵略して駐留した日本軍が阿片で資金を得ていた事実は有名だし、それは初めて知る歴史的事実ではないが、その問題にストレートにスポットをあてて、映像で証言や資料が示されて構成された歴史を見るのはこれが最初である。構成がよく、告発と検証に説得力があった。歴史はこのように映像で語るときに最大の説得力が生まれる。
興亜院という組織(国家機関)の存在も初めて知った。そして、今回の番組では、終戦記念日に放送された「レイテ決戦」に不満を述べた問題点が、対照的に見事に充足されていた。戦争犯罪の構図が描かれ、構図の中に首謀者の顔が揃っていた。東條英機と板垣征四郎。東條英機は、この15年間ほどの日本の右傾化と東京裁判否定の歴史認識の転換の中で、次第次第に復権が進み、あと一歩で名誉回復というところまで来ていた。孫の東條由布子が頻繁にテレビ出演し、その主張が何の抵抗も受けずに素通りで公共の電波を通じて流され、国のために犠牲になった「偉大な英雄」の如き表象がマスコミを通じて醸成されつつあった。
10年前には津川雅彦が東條英機を演じた映画「プライド−運命の瞬間」が上映され、右翼側からの絶賛を浴びていた。津川雅彦は昨夜のNHKの番組を見てどう思っているのだろうか。昨夜のNHKの番組こそが歴史であり、正しい歴史認識というものだろうが、この10年間ほどの日本は、正しい歴史認識が「東京裁判史観」だとか「左翼史観」だと呼ばれて否定され、真実が隠蔽され歪曲され、戦争指導者たちがひたすら正当化される歴史認識が大流行していた。否、大流行と言うような生易しいものではなく、ほぼ支配的な歴史認識の地位を獲得していたと言っても過言ではない。東條由布子などが臆面もなくテレビに出て、A級戦犯の東條英機を堂々と弁護する姿は実に奇異で、憲法も変わってないのにこの現実は一体何だろうと思いながら見ていたが、ネットの中の「標準」を偽装する「ウィキペディア」では、やはりこの周辺の記述一切は右翼の独壇場になっていて、右翼史観が正統史観として定着し、半ばネットの「常識」となっている。何の知識も学校で身に着けない青少年の教育にとって恐るべき環境。この状況は果たして改善に向かうのか。
この戦争に関わる歴史認識について、番組とは直接関係ないが、少し持論を述べたい。同じことは前にも言っているが、
ウェーバーに従ってしつこく繰り返す。それは、今回の番組に限らず、例えば満州事変の歴史認識に典型的だが、「現地が中央の統制を無視して勝手に暴走した」という認識である。関東軍が参謀本部の統制を無視して暴走した。軍が政府のコントロールを無視して暴走した。我々はそういう見方をしている。だが、この認識は正しい認識と言えるのか。私は、この認識方法は歴史の真実を見抜くのではなく、むしろ隠蔽する方向に作用しているように思われてならない。真相を言えば、「暴走」は阿吽の呼吸で現地軍と参謀本部との間で「承認済み」だったのであり、日本陸軍の遺伝体質的な軍略方式だったのである。松井石根の南京攻略軍のスタイルもそうだ。南京攻略の目的は最初から与えられていない。形式上は松井石根の「独断専行」である。中央はそれをやらせて、常に後から追認するのだ。「状況がこうなった以上は仕方がない」と既成事実を後から追認する。それは責任逃れのためである。自分は知らないことにする。現地軍の責任にする。
追認する状況を(現地の暴走で)先に作らせる。結果に対して責任をとらない。辻政信のノモンハン事件もそのパターンが該当する。これは、表面上の事実だけを見れば現地軍の暴走だが、全体を構造として捉えれば、中央と出先との間の無責任の原理を媒介したシステマティックな組織行動である。それがシステムであり原理であることは、現地と中央の参謀はよく心得ていて、だからこそ、関東軍の参謀長と師団長であった東條英機と板垣征四郎は、「暴走」の後で中央に戻って出世して総理大臣と陸軍大臣になるのである。そこまでの説明を歴史に対して与えなくてはいけない。そうでなければ、「暴走」という日本語(本来なら処罰や処分の対象となる違法行為や逸脱行動)の適用が混乱して歴史認識の整理に障害が生じる。実際のところは、このシステムなり原理にはさらに本質的な問題があり、軍の「暴走」を黙認し追認する統帥大権者としての昭和天皇という存在がある。やらせているのだ。やらせながら、自分は見て見ぬフリをして責任の外に身を置くのである。システムは昭和天皇の戦争責任に抵触する。だから、戦後の日本人は「暴走」の言葉で戦争を語るのだ。これは自己欺瞞である。
暴走はシステムの内部に前提的原理的に組み込まれている。あの戦争に対して、「現地軍の暴走」とか、「軍部の暴走」という言葉を使って説明するのは、昭和天皇の戦争責任に論理が及ぶのを抑止するための自己欺瞞装置である。そうして、昭和天皇の戦争責任を免責するトリックで自己欺瞞して、朝日新聞をはじめとする戦争扇動者のマスコミの責任を免責し、「戦後民主主義者」に化けた自己の戦争責任を巧妙に免責するのである。この歴史において大事なことは、「暴走」の歴史認識をそのまま受け入れるのではなく、「暴走」が単なる「暴走」ではなかった真実を暴露することだ。さて、最初の問題に戻って、靖国神社をめぐる政治として、今年の夏は、これまでの右傾化に次ぐ右傾化の動きにようやく歯止めがかかりそうな期待を抱かせる一連の出来事があった。第一は、無宗教の国立追悼施設の設置を政府に求めた
河野洋平衆院議長の全国戦没者追悼式の式辞である。第二は、週末の政治番組に出演した
古賀誠のA級戦犯分祀論の明言である。第三に、週末のTBS報道番組での「63年間、日本人は戦争の総括と反省をしなかった」という寺島実郎の直言である。第四に、
福田首相が戦没者追悼式で述べた式辞の一節、
「私たちは、内向きな志向の虜になることなく、心を開き、そのまなざしをしっかりと世界に向けながら、歩んでいきたいと思います」。この誓いの言葉も意味深い。安倍晋三なら逆立ちしてもこの言葉は出なかっただろう。関連して、この番組が現地で取材され撮影されたのは、おそらく今年に入ってからだろうが、中国政府の協力が背景にあるように感じられる。昨年末に福田首相が訪中して、日中関係が改善へと方向転換したが、そのことが少なからず番組の取材に好影響を及ぼしている。映像の中では台湾と米国と日本の研究者しか出なかったが、瀋陽の阿片工場の跡地とか、内蒙古の軍閥が阿片を格納していた窰洞とか、山西省のケシ畑だった農地とか、中国側がNHKの取材要請に応じて協力体制を敷かなければ撮影できなかったのではないかと思われた場面が幾つも出てくる。また、そうした現地映像の一つ一つが番組の歴史検証の説得力になっていた。例えば、上海の旧阿片窟界隈など、本来なら、過去の恥辱の歴史を外国のメディアが掘り返すのを嫌って、中国政府は取材や撮影に協力するのを嫌がるはずだし、その映像が報道にどう利用されるかわからず、反中右翼の安倍晋三支配下のNHKなら積極的に協力に応じることはなかったのではないか。
番組を見るかぎり、印象としては中国が積極的に協力している。日中友好のNHKの姿を取り戻しつつあるのだろうか。そうであることを願いたい。中国を取材し撮影したら、NHKは文句なく世界一の番組を作る。気合が違う。伝統が違う。中国はNHK。NHKは中国。ぜひ来年も、日中戦争の真実に切り込んだ歴史報道番組を制作していただきたい。