「鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し(その1)
(本稿は2008年6月7日に発売された鹿砦社『紙の爆弾』7月号に掲載された管理人の拙稿『鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し』である。これを三回に分けて弊ブログで公開する)
「植草一秀事件を検証する会」 高橋博彦
一、仮借なき「長期人質司法」の深奥に見えてくるもの
昨年の本誌4月号に、「植草事件に隠された闇」と題して筆者の寄稿が掲載された。本誌の表裏をデザインしておられる、パロディ作家でありグラフィックデザイナーのマッド・アマノさんと、鹿砦社編集長である中川志大さんのご好意によるものである。エコノミスト・植草一秀氏に関する拙記事が「紙の爆弾」に掲載された時、松岡利康社長からメールをいただいたが、そこには『紙の爆弾』は、まだまだ小さな存在ですが、世に埋もれた真実を、タブーなくどんどん掲載していく所存であるという力強い言葉があった。また、氏は偽装痴漢事件に嵌められた植草一秀氏についても、「不当に身柄を拘束され"別荘"暮らしを強いられた悔しさは、体験したものにしか判りません。植草氏のハメラレた悔しさのほどは、ハメラレて半年余りも"別荘"暮らしを強いられた私には理解できます」と、今から思えば国策捜査の陥穽に落とされた者にしか言えない重い言葉があった。
当時、筆者は植草一秀氏が遭遇した「痴漢偽装でっち上げ事件」に心を奪われており、その政治的謀略を行った黒幕と、権力に迎合して言いたい放題の嘘を報道したマスメディアに対して熾烈な怒りを覚えていた。そのために筆者は松岡利康氏が遭遇した不当捜査事件を皮相的にとらえており、その出来事が内包する真の危険な問題にまだ思いが至らなかった。
しかし、最近になって、松岡氏を襲った傍若無人な出来事を自分なりに考え始めた時、ここには植草氏の場合と同質の深刻きわまる問題が横たわっているように思えてきた。松岡氏本人も含め、彼を支援する方々は、日本国憲法第21条が危殆に瀕していることを、各々のすぐれた筆法で真剣に説明している。これは最も重要なことであり、この条文が担保されない社会は、万民の幸福原理に真っ向から背反する暗黒の閉塞社会となる。いかなる時代にあっても、いっさいの言論表現の自由は保障される必要がある。松岡氏の場合は言論・出版界に身を置く人間であるから、これは最も切実な訴えであると思う。
問題が深刻なのは、鹿砦社のように本物の告発と暴露を行なう弱小メディアや個人に向かって、この憲法第21条が選別的に無効化されてしまうという圧倒的事実だ。世の中は力の弱いものが強いものの不正やひずみを批判できるシステムを温存しておかないと、非常にいびつな方向に傾いてしまう。今の日本は権力中枢に迎合し、統治機構の出先機関と成り下がった大手メディアがのうのうと生かされていて、弱いものいじめに奔走するきらいがある。彼らが時の権力にそそのかされ、個人や弱小資本を無慈悲に「叩い」ても、この国にはそれを制止できる保護機構は存在しない。
逆に鹿砦社のように小さな出版業者が大手資本の巨悪に挑んだだけで、徹底的に壊滅状態になるまで権力筋に干渉されてしまうのだ。強者が弱者を完膚なきまでに叩き潰す社会。こういう弱肉強食を放置して、いったいどこに世の中の健全性を求めるというのだろう。
グローバリゼーションという国際金融資本が仕掛けたインチキ外来思潮は、買弁勢力を手駒にし、さまざまな悪辣な手口を使って日本をネオリベ社会に改変しつつある。この動きが先鋭化したのが小泉政権だった。植草氏や松岡氏への言論弾圧は国家構造の急激な改変作業の中で出てきたものだ。アメリカの対日「年次改革要望書」のプログラムに従った買弁勢力中枢は、郵政民営化という国富朝貢作戦を展開した。国民労働の結晶である350兆円もの郵政資金を米系金融資本に提供し、日本各地の優良資産を二束三文でハゲタカ系の外資に売り渡す政策が目的であった。彼らは徹底的に外資に有利な規制緩和を敢行し、それを聖域なき構造改革と呼んでいた。国富を宗主国に貢ぎ、そのおこぼれに預かろうとした犬にも劣る連中は、メディアを掌握することによって世論形成を徹底的に封じた。これが小泉政権五年半で起こった破壊的な日本改変であった。
畢竟、小泉・竹中構造改革とは売国のためのシステム造りだった。この危険性を見抜き、これに異を唱える政治家やジャーナリストなど、良心派有識者は抵抗勢力なるレッテルを貼られ、徹底的に表舞台から引き摺り下ろされた。その象徴的有識者がエコノミストの植草一秀氏であった。
また、鹿砦社の松岡利康氏は郵政解散総選挙が目前に迫る2005年7月にガサ入れと不当拘束に出遭っているが、当時はアメリカ通商代表部の意向を汲んだメディアの報道統制が最も先鋭化していた時期でもあった。したがって、松岡氏への唐突で異常な弾圧も小泉政権による国策パラダイムの転換とけっして無縁ではない。自民党清和会を中心とする買弁勢力は、売国的構造改革路線を批判する者はもちろんのこと、天下りなど官僚利権構造の温存を批判する者たちも許さなかった。松岡氏の逮捕勾留は、氏が警察官僚天下り企業の不正を糾弾したからである。
構造改革は、所得格差や消費格差の経済格差として出たが、この弊害は教育格差や希望格差などの文化的格差まで助長し、ネオリベラリズム特有の階級社会を固定化し始めた。この動きに呼応して、権力は反ネオリベ的な姿勢を持つ個人や出版社に表現弾圧の志向を強め、ついには鹿砦社が露骨な言論弾圧を受けた。松岡氏が糾弾したアルゼ(株)は、パチスロ業界の権化とも言える企業であり、典型的なネオリベ的市場原理の活動様態を持つ。しかも警察官僚と癒着がある企業だ。他のメディアがタブー視して触れなかったものに松岡氏は挑んだ。虎の尾を踏んだのだ。
アルゼに対する松岡氏の弾劾視点は、子会社を無慈悲に潰すその悪辣な弱肉強食にある。彼が「アルゼ王国の闇」と言っているのは、魚心あれば水心ありの日本的経営感覚になじまない無慈悲で極悪非道な経営体質である。
つまり、松岡氏本人は大企業の巨悪に対して不正糾弾を行なっていたのだが、この告発行為は企業レベルを飛び越えて、結果的には日本にネオリベを敷設した急進的構造改革派の逆鱗に触れたのだ。これは、エコノミストの植草一秀氏が行なった「りそなインサイダー疑惑」糾弾とまったく同様な位相を持ち、松岡氏を狙い撃ちした元凶は、植草氏を嵌めた勢力と同一の買弁勢力ではないかと筆者は思っている。ネオリベの破壊的趨勢は出版社の表現格差にまで及んでいるのだ。論壇領域に弱肉強食の社会ダーウィニズムが席巻したら、文化を創造し、それを継承発展させていくことなど到底不可能であろう。
植草、松岡両氏が返り血を浴びながらも果敢に行なった巨悪弾劾行為は、日本再生の鍵となる突破的かつ歴史的な偉業だと筆者は思っている。気が付いたもう一つの特徴は、メディアがこの二人の事件に対して取った振る舞いの異様さにある。そこには、今、日本が入り込んでいるトンネルの深い闇が垣間見える。植草事件でメディアは、初期報道からセンセーショナルに取り扱うことで、彼の言われなき病的性癖説を流布しまくった。一方、松岡事件では逆に異様なほどに鎮静的と言うか、ほとんどメディアが触れない状況があったようだ。特に東京方面では鹿砦社問題は歯牙にもかけなかった。松岡氏自身はこれを「メディアの見棄て感」と言っている。
植草氏の場合はテレビ出演回数も多く、その知名度で関心を引きつけたことはあった。だが、マスコミが彼のありもしない病的性癖を大々的に、面白おかしく諧謔性を交えた表現に終始したことは、無辜の人間に罪を着せる目的があったとしか思えない。各マスコミの初期報道には内容の極端なバイアスが見られた。そこには植草氏側の弁明がほとんど皆無であることと、事件を一貫して既遂事実として扱ってしまうという悪意ある印象報道が行なわれた。
植草事件は大々的に喧伝されたが、氏個人の人権という側面から見ると、植草氏側の弁明は徹底的に無視され、虚妄の病的性癖論だけが面白おかしく流布された。ここにはきわめて不自然な非対称(不均衡)が見られるのだ。これは松岡氏の言う「メディアの見棄て感」を髣髴とさせる。植草氏が遭遇した二度にわたる痴漢事件とは、国家権力による策謀的な偽装犯罪の疑いがきわめて濃厚である。
ちなみに植草氏は迷惑防止条例違反の嫌疑で132日間、松岡氏は、パチスロメーカー「アルゼ」役員の私生活を暴いたことと、阪神タイガースの元スカウトマンの転落死が、あたかも現役の阪神球団の職員による犯行であるかのような記述を行った、そのスカウトマンの長女の文章を、鹿砦社発行の『スキャンダル大戦争』に掲載したことで、名誉毀損の嫌疑をかけられ、じつに192日間もの不当勾留を受けている。
彼らは容疑段階であるにもかかわらず、被疑者の自由を徹底的に奪う「長期人質司法」を受けている。それは苛烈さと人権無視において、甚だしく異常な弾圧だと言えよう。両者とも長期に及んで国家に羽交い絞めにされるような嫌疑ではない。どう考えても、この人質司法(別名:代用監獄)は通常の意味で言う官憲の権力行使から逸脱している。しかも、松岡氏の場合は、これによって出版社の機能停止にまで追い込まれているし、植草氏の場合も会社の営業停止に追い込まれている。
ここに共通することは、両者とも、現代企業の必需品で業務情報が集積する会社専用パソコンが押収されているという事実だ。明らかにこれは言論封殺を目的とする不当弾圧であるのだが、非道なことに、生業の稼動を不能にして、憲法第25条に規定される生存権の浸潤に及ぶ陰険さも併せ持っている。その執拗さ、その徹底ぶりに思いを止めると、ここには権力側にのっぴきならない事情があることをうかがわせる。植草氏と松岡氏に加えられた唐突な弾圧には、法律的な根拠とは別に、権力側にとって、けっして看過できない、「彼ら特有の」重い事情が生じたことを裏付けている。両者の表現行為は、明らかに権力機構という巨龍の逆鱗に触れ、その獣性を刺激した。
京急電車内で植草氏を逮捕した一般人を、一審第二回公判に出廷した検察側目撃証言者は、法廷証言で思わず『私服の男性』と呼んでいる。これは筆者も他の支援者もはっきりと耳にした。検察とこの証人の法廷問答において、証人が乗り合わせた一般人の乗客を「私服」と形容しなければならない合理的理由も必然性も限りなく低い。筆者と他の支援者は、この証言者と検察官の問答様態を傍聴席で見聞したが、それは異様なほどよどみなくスムースなやり取りであった。まるで想定問答を充分に繰り返したような印象を受けている。
しかし、反射的な答え方を練習すればするほど、想定になかった質問が突然投げかけられた場合は、思わず本音をさらけ出してしまうということはあるのかもしれない。目撃者が逮捕者の制服姿を普段から知っている可能性が高い場合は、うっかり「私服」という言葉を使う場合もあるかもしれない。筆者は植草氏を追尾して嵌めたグループが、少なくても国家権力を象徴する制服を着る職業の者たちではないかと睨んでいる。この制服組が権力政党と関係する宗教団体である可能性もないとは言えないだろう。一方、松岡氏が糾弾した「アルゼ」や阪神タイガーズは警察官僚が天下っている企業である。
権力筋は植草氏に対しては、偽装犯罪を仕掛け、松岡氏に対しては国権を発動して強制捜査、強制勾留に及んだ。体制側にはどうしても彼らを潰さなければならない事情が存在していることになる。植草氏の場合は間違いなく小泉政権がらみの政治的謀略が働いており、その巨大な背景の一つは、りそなインサイダー取引疑惑を彼が指摘したことにある。また彼は、小泉政権が官僚批判を前面に出しながらも、財務省主導による官僚利権構造が温存されていたことも鋭く指摘している。
松岡氏の場合は、糾弾した相手の大企業に警察官僚が深く関わっていることにより、事件性が表面化すると困るからだろう。つまり、アルゼも例の球団も権力の執行機関から見れば絶対に無謬性を貫いてもらわないと困るからだ。犯罪企業に天下ることは警察機構の威厳が低下することに直結し、絶対にあってはならないことだからだ。だからこそ、鹿砦社のように、これに瑕疵を付けようとする行為は徹底的に弾圧するのではないだろうか。植草氏、松岡氏ともに、眠れる日本のリヴァイアサンを呼び覚ましたのだ。体制側は触れて欲しくない何か「不都合な理由」を抱えていた。俯瞰すれば、両者が遭遇した事件には同質の時代背景がある。時代は日本国憲法第21条の侵食というやっかいな位相に突入している。
第21条
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
植草氏や松岡氏の大弾圧に見られる決定的な傾向は、言論の自由が無効化される時代が間近に来ていることを示している。エスタブリッシュメントは、言論表現の自由を圧殺してこの日本をどうしようとしているのだろうか。筆者は言論封殺の彼方に、今の日本が「夜警国家」という恐怖社会へ変貌し始めていることを強く感じる。」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/07/2_b436.html
「
二、強者が弱者を狙い撃つ暗黒の夜警国家
昨今日本の病弊を簡単に言うなら、対米属国化がより顕著になり、それは特に金融経済領域に著しい。もともと新自由主義的な傾向は中曽根政権辺りから顕著になっていたが、小泉政権に至っては、聖域なき規制緩和のもとに、日本型の市場構造をグローバル・スタンダードに激変的に適合させた。
「聖域なき構造改革」と銘打ったこの急激かつ圧倒的な構造改変が、どれほど無辜の人間や企業の命を奪ったか、その弊害は測り知れないものがある。市場原理至上主義による弱肉強食型の経済体制を敷設することが小泉・竹中構造改革路線の目的であった。この構造改変以降、我が国は国策パラダイムが極端な新自由主義(ネオリベ)に傾斜した。この動きはラディカルな革命に近いものであり、日本の社会構造は根底から拙速に変質した。わかりやすく言うなら、強者が弱者を徹底的に支配し、搾取し尽くすシステムに切り替えられたのである。これに呼応して、言論の自由は急激に蚕食され、大手メディアは権力の走狗と化した。
国民は深刻なデフレが固定化した平成大不況に意気消沈している間に、憲法第21条がつとに無効化されてきた状況に気付いていない。このままでは、ごく近いうちに言論や出版の自由がすっかり形骸化し、人々は本当に言いたいことが言えなくなってしまうことになりかねない。
国民はやがては権力に迎合した生活を余儀なくされ、経済強者や官憲の顔色を伺いながら、卑屈で怯惰な心持ちで日々を過ごすようになる。言論界は太鼓持ちのような当たり障りのない表現だけになり、社会悪の批判や弾劾は夢のまた夢となる。おそらく風刺さえも禁止される社会に突入するだろう。鹿砦社の弾圧は、そういう究極的な閉塞社会が間近に迫っていることを我々に教える。
なぜそう感じるのかと言えば、植草氏や松岡氏に対して官憲が行なったことを見て、それを国家を牛耳るパワーエリートの意志として捉えれば、彼らがこれから造ろうとしている日本の姿がおぼろげながら浮かんでくるからだ。
この動きは超絶的な格差社会の到来を予見させる。小泉・竹中構造改革路線は、米系国際金融資本の言うかがままにネオリベ経済体制を敷設した。これが生み出す超格差社会は固定化され、国民労働の成果である富は不公平に傾斜分配される。わかりやすく言うなら、会社の利益は株主に還元され、社員には分配されない。強者が弱者を犠牲にしてますますいい目を見る社会システムが構築されつつある。それに加えて、似非保守連中が策動する主体性なき改憲論の動きは、自衛隊を合法的にアメリカの傭兵にしようとする策謀にほかならない。ただし、傭兵は報酬をもらうが、この場合は日本の莫大な国富をアメリカに貢いだ上に、アメリカのために日本人若者の血が流されることになる。
このような冷血な法律を策定する売国奴たちの方向性にこそ、言論の自由が封殺される契機が存在するのだ。日本の構造を改変し、自分たちの欲望をほしいままに実現するシステムを円滑にするために、エスタブリッシュメントは、日本にミルトン・フリードマンを始めとするシカゴ経済学派たちの創設した新自由主義をもたらした。
その目的は、日本型資本主義システムによる富の公平配分を破壊して超格差社会を出現させ、構造的に経済弱者を大勢生み出すことにある。国民の大多数を経済弱者に落としてしまえば支配が容易になるからだ。これを行なうためにはメディアを掌握し、世論を随意に形成する必要があった。そのために権力中枢は国際金融資本の資力を使って主要メディアを握った。メディアは資本強者や権力を批判できなくなり、一部の特権階級だけがわが世の春を謳歌する最悪の状況が訪れようとしている。小泉構造改革継承路線とはこのような構造を帯びている。
社会動向を安易に生物学的な類推で考察するのは、必ずしも有効とはかぎらないが、時にはわかりやすいこともある。社会が変化する時は森林生態学的な経過をたどる場合がある。それは森林の多様な植生が変化し、やがては平衡してゆく有様と似ていなくもない。植物群落が遷移していき最終段階になると、群落と環境との間に一種の動的平衡状態ができるが、群落は安定的に落ち着いてしまう。これを極相と言うが、このアナロジーを小泉・竹中構造改革路線に適用すると、彼らが目指した徹底した自己責任論、小さな政府、聖域なき規制緩和等は、それまで築き上げてきた日本本来の自生的秩序をことごとく破壊しつくす暴虐であった。
その結果、日本特有の社会セーフティネットは消滅した。今年の4月から始まった「後期高齢者医療制度」は老人に自己責任原則を被せ、彼らのなけなしの年金から強制天引きを行なうという非道さだ。しかも、二年毎の見直しで天引き増額が行なわれることは目に見えている。文字通りの棄民政策だ。これが象徴する近未来の日本は、新自由主義社会の行き着く先、すなわち極相社会として、数パーセントの大金持ちと、自由と批判精神を奪われ奴隷化した大多数の貧乏な市民に階層分極化する。
この極相社会を夜警国家というが、徹底した奴隷労働と相互監視、密告(チクリ)社会が実現するかもしれない。強力な武器を持った警察が市中を徘徊し、市民を睥睨する恐怖社会が到来する公算は大きい。オーウェルも真っ青の監視社会はけっして幻想ではないのだ。」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/07/post_1a78.html
「三、巨悪を指弾した松岡氏と特別取材班
悪を悪としてストレートに糾弾することは社会正義の根幹である。本来マスコミは公益を毀損する社会悪を糾す役目を担っているはずだ。しかし、昨今のマスコミはいたって権力迎合的であり、政権筋と繋がった一部の利益団体を益する報道しか行なわない。このトレンドは非常に危険である。エコノミストの植草氏は小泉政権の国策的な犯罪性を単身で真正面から糾弾した。その結果、彼は二度も官憲のでっち上げ事件に嵌められた。鹿砦社の松岡氏はアルゼの巨悪を本で告発し、阪神タイガーズ元スカウトの転落死疑惑を指摘して不当強制捜査を受けた。この二人は社会の巨悪を見据え、そのことを正直に告発しただけである。個人やメディアの言論が、横暴な資本や権力筋の間違いを自由闊達に批判できてこそ、健全な社会秩序は維持される。
ところで、松岡氏と特別取材班は、その著書「アルゼ王国の闇」シリーズで、巨大アミューズメント企業の巨悪をストレートに正攻法で糾弾している。「アルゼ王国の闇」を読むとわかるが、巨大な企業「アルゼ」がその資金を使って、弱体化したブランド企業にM&Aを仕掛け、その企業技術のノウハウや人材を徹底的にしゃぶりつくした上に、無残に放り捨てるという、ハゲタカ外資も真っ青な悪逆非道な経営体質を持つことを余すところなく描ききっている。これは巨悪に対する告発本であり、けっして低俗な暴露本ではない。その視点は透徹した社会正義に貫かれている。
したがって、この案件は刑法第230条の2で言うところの公共の利害に深く関わるものであり、その公益性によって表現の自由は保護されるべきものだ。これに関する憲法第21条及び刑法第230条適用の妥当性については、支援者の方々が適切に語っているので、ここではこれ以上は語らない。
しかし、ふと思ったのだが、鹿砦社のような零細な出版社がこれをやることは確かに無謀だったのかもしれない。相手が巨大すぎるのである。正直、筆者から見ると蟷螂の斧の感は否めない。しかし、松岡氏の不退転の果敢さと立ち向かう姿勢には純粋な感動を覚えずにはいられない。ここには本物のジャーナリストの矜持と折れない魂が見える。巨悪を睨むこの姿勢は植草一秀氏にも共通するものがある。二人ともあまりにも小さくひ弱であるが、そこにこそ、本物の批判精神の真髄が見られるのだ。社会は小さいものが大きなものを批判できるルートを確保しておくべきだ。小さいものがものを言えない世界は人間的な精神が死滅する荒廃した夜警国家となる。
四、現今メディアに浸透する棄民体質
大手出版社や他のメディアは鹿砦社事件を黙殺した。まるで腫れ物でも扱うかのようにこの件に触れることをタブー視したのだ。見殺しである。表現の自由というメディアの生命線が断ち切られるかどうかという重大な問題を提起した事件であるのに、同業者たちは「見ざる、言わざる、聞かざる」に変貌した。彼らのその棄民感覚は、じつは自分たちの表現精神におけるレゾンデートルを捨てていることに気が付いていない。巨大資本や権力を前にして、言葉を駆使する生業(なりわい)の者が萎縮したら、言葉そのものが死んでしまうではないか。
法律とは個人や弱小企業が巨大資本や権力に翻弄されることのないように考案された社会の歯止めである。ところが今の日本はこの歯止めが軒並み崩れかけている。日本は典型的な社会ダーウィニズム型に変貌しようとしている。今、真に危険な徴候は、警察、検察、裁判所が社会的強者の走狗と化しつつあることだ。彼らは社会正義と秩序を維持するために行使すべき権力を、特定の階層を保護し強化するために、邪魔な個人の排斥を行い始めた。特に国のマクロ政策や官僚利権構造などを鋭く批判する有識者に対しては露骨に牙を剥けることが頻出している。
鹿砦社弾圧の基本構造は官僚天下り制度に深く関係する。アルゼの巨悪を弾劾する行為は必然的に警察官僚の天下りを周知にさらすことになるからだ。権力機構の焦りがここに起因することは間違いない。しかし官憲が社会正義を亡失して個人を狙い撃つなど言語道断であろう。国家機構の規範が崩れ始めている。これは、社会正義の番人であるべき官憲が巨大国際金融資本の番犬と化すネオリベ体制が導いた結果なのだ。植草氏と松岡氏は人間の良心として悪を悪として素直に糾弾した。ところがその普通のことが国家権力の逆鱗に触れ、彼らは強制捜査を受け、不当勾留を受けた。このようなことが常態化したら、それは国家が狂ってきているのである。官憲が恣意的に一個人に獰猛な牙を向ける社会こそ、絶対に受け入れてはならない社会である。
五、危殆に瀕する言論の自由
大戦後の日本はGHQによって戦後民主主義のわだちを引かれ、紆余曲折はあったが、かろうじてその上を歩き続け、その間、曲がりなりにも言論の自由は何とか担保されてきたと誰しもが思っている。しかし、本当にそうだったのだろうか?
戦後のメディア一般は、アメリカの正義に対しては「開かれた言語空間」であり、日本の歴史に対しては「閉ざされた言語空間」というきわめて非対称・不均衡な方向性を持ちながら現在にいたっている。GHQ統治の時代から今日まで、メディアは緩慢な言論統制色を有していたが、小泉政権にいたっては、いきなりGHQ時代の放送コードが甦った感がある。このメディアの報道統制色は、アメリカの傀儡政権であった小泉内閣時代、特に2005年9月、郵政民営化というシングル・イシューで行なわれた衆院解散総選挙の前後に最も先鋭化した。松岡利康氏が7月に強制的な家宅捜査を受け、有無を言わさずに勾留されたのもこの時期であった。筆者はこの時期の大手メディアが米系保険会社から出たCM料によって報道管制を敷かれていたことを強く感じ、ブログ等で警鐘を鳴らしていた。今から思えば、松岡氏の逮捕もこの時期における情報統制の先鋭化とけっして無縁ではなかっただろう。
ビデオジャーナリストの神保哲生氏によれば、日本のテレビと新聞は、クロスオーナーシップという同一資本に保有されているので、事実上、情報統制が行なわれ、随意に世論形成が可能であると言っている。くり返すが、あの郵政民営化・解散総選挙の時、メディアは政権与党に有利な誘導操作を露骨に行なっている。この時、テレビや新聞紙上のCMには、異様に外資系保険会社の名前が乱舞していたことを記憶している方も多いと思う。資本主義世界であるから、世の中がある程度大資本の影響下に置かれるのは仕方ないとしても、メディアは資本に超然としている必要がある。
思想の左右を問わず、憲法第21条、言論表現の自由はどのような時代にあっても絶対に死守すべきものだ。資本の力でこれが踏み潰されることがあってはならない。一般人であっても、表現の自由は人間存在の根源的レゾンデートルの一つである。これが侵される社会は必然的に第25条の「生存権」さえも侵されてしまうことになる。人はパンだけでは生きてはいけないのだ。表現することも、食べることと同様に生きていく重要な糧なのだ。
国家や国民の幸せ度や充実度を表す指標は、普通は経済の有様を見ることだと思われがちだが、じつはもっとわかりやすいサインがある。それこそが思想表現の自由度であろう。この自由度が低下する社会は閉塞した社会であり、このトレンドが極相に到達した時、民主主義は破壊される。
今の日本は一部の人間だけが権力を恣意的に行使でき、国民の奴隷労働の成果である富を彼らだけが独占できるシステムに作りかえられている。格差社会の本質とはそういうことだ。経済的に言うなら、富の正常な還流が滞り、再分配機能が働かない社会のことである。そのために経済弱者は塗炭の苦しみをなめることになる。これが今、我が国を覆い尽くそうとしている圧倒的な趨勢である。
何度もくり返すが、今日本を覆っている言論空間の閉塞性は、これを放置しておくと、近い将来、日本が夜警国家に変貌することを警告している。したがって、鹿砦社弾圧事件は日本人全体の命運がかかっている重要なできごとだと言っても、けっして過言ではない。
いつに筆者が松岡利康氏のジャーナリスト魂を強く評価し、感動を覚えるのは、氏の糾弾姿勢の一貫した矯激さと、弱いものに対する優しい眼差しにある。かつて小泉政権が発足した当時に刊行された「闘論・スキャンダリズムの眞相」というブックレットでは、「噂の眞相」誌編集長の岡留安則氏と松岡氏が、全共闘ワールド全開で対論しているが、これがすこぶる面白い。その中に松岡氏が語った印象に残る次の言葉があった。
「鹿砦社の小ブル急進主義的・ブランキスト的なやり方と、『噂の真相』の構造改革派的なやり方」
昔はノンポリで、左翼の思想遍歴を持たない筆者には、左翼用語はぴんと来ないのだが、松岡氏が対談で「僕は小ブル急進主義的、ブランキストだ」と言っていたことは強く印象に残っている。なぜなら、これは鹿砦社の表現姿勢の根幹を的確に打ち出していると見るからだ。松岡氏が2001年当時に、対談の中で披瀝したこの「小ブル急進主義・ブランキズム」というのは、保守系の筆者でも、それを左翼ワールドとしてではなく、純粋な行動学としてみれば鮮明にその意味がわかる。筆者流に解釈すれば、出版職人で表現者でもある松岡氏は、一切の妥協を許さない一揆的な批判精神・糾弾精神をもってことに当たるという意志の表現なのだ。松岡氏のこの矯激なポリシーは一貫して踏襲されている。芸能スキャンダル発掘やアルゼ糾弾などを見てもわかるとおり、裁判沙汰の波濤も乗り越えるという強靭さを持ちながら、それは鹿砦社の編集方針として根付いた。アルゼや阪神タイガーズ糾弾の案件では192日間も勾留の憂き目に遭っている。松岡氏のこういう生き様を見る限り、その物静かな風貌に似合わず、かなり過激な要素を持ったお人である。まさにブランキストそのものだ。
また、芸能スキャンダルは低俗な覗き趣味だと思われがちだが、松岡氏によれば芸能界(スポーツ界や相撲界も含む)は社会の縮図どころか、何でもありの伏魔殿であるから、これを斬ることは社会的に有益かつ意味のあることだとはっきり述べている。
さて、ブランキズム云々はともかく、松岡氏のアルゼ糾弾は、出版職人あるいは糾弾者として、彼の為せるわざの金字塔であり、余人の追従できない仕事になっている。なぜなら、それは蟻が剣歯虎に咬みついたに等しい捨て身の無謀さに満ちているからだ。
しかし、そこには左翼や右翼思想の枠を超えた部分で、悪いものを悪いと言い続ける折れない勇気と一貫性があり、それは強く胸を打つ。もちろん、松岡氏の有罪判決の深層には、この国が夜警国家へ変貌しつつあるという時代趨勢が厳然としてある。
最後に、長いものには巻かれろと、権力や資本強者に阿諛追従するニセ物ばかりが横行する今日、巨悪にひるまずに真っ向から挑んだ松岡氏の行動様式には、理屈を超えた不思議な清冽さがある。本物だけが放つ清々しさである。暴政・圧政の超格差社会に突入してきた今日、鹿砦社の姿勢は必ずや心ある人たちを触発し、翼賛傾向に走る日本の軌道修正の一端を担うかもしれない。圧倒的に巨大な相手でも、真に必要を感じた時は、ひるまずに咬みつけばダメージを与えられることがわかったからだ。他人の心を揺り動かす言葉とは、もしかしたら血を噴き出す思いの中からしか生まれないのかもしれない。鹿砦社はブレークするだろう。筆者はそう確信している。」
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/07/post_8054.html