週末の政治番組に麻生太郎が出てくるかと思って注目していたら、麻生太郎は出ずに、かわりに野田聖子がずっと出演していた。週明け(8/4)の閣僚事務の引継ぎのニュースでも、テレビ報道の関心は絵になる野田聖子に集中して、改造内閣の主役のような存在になっている。テレビの画面に映る野田聖子の姿や言葉は印象がよく好感が持てる。仕事に前向きに取り組む姿勢がよく出ていて、説明と説得に素直さと真面目さが感じられる。「サンデープロジェクト」では田原総一朗の前で消費者行政の課題について話していたが、それを見ながら感じるところが多かった。よく勉強しているし、勉強しようとしている。最近の政治家には「勉強しようとしている」態度が見られない。国会議員は最初から行政の専門家ではなく、そもそも国民の代表なのだから、細かな専門知識の前提がなくて当然なのだ。野田聖子の説明はわかりやすく、新鮮で、視聴者の耳によく届くものだった。インタフェースがいい。
野田聖子の説明する姿を見ながら思うことは、やはりこの国では女は男よりも権力から遠い存在であるということと、野田聖子くらいの年齢の女性がもっと多く政治家や閣僚としていれば、この国の政治はもっとよくなるだろうという感慨である。それと、譬えば、自分が企業の事業部長だったら、野田聖子を部長にして使ってみたいという気分がわく。野田聖子には妙な官僚臭や二世臭がなく、大臣職をお飾りで無難に済まそうという意識や利権に首を突っ込んで儲けようという気配がない。仕事をストレートに捉えていて、行政の向こうにある国民が目に入っている。野田聖子の態度は民間的だ。それも、アグレッシブで、エネルギッシュで、80年代以前の日本の民間企業の逞しい中間管理職の姿がある。現在のように疲弊して鬱病一歩手前で俯いている日本人の姿ではない。激務を精力的にこなして、部下の面倒を見ながら、朝晩の通勤電車で司馬遼太郎を熟読しているような、そんなサラリーマンの姿なのだ。
昨日(8/4)、福田首相は経済財政担当相の与謝野馨を官邸に呼び、原油や食料品の高騰に対処する総合的な経済対策の骨格を早急にまとめるように
指示した。この経済対策はお盆前には骨格が示され、臨時国会で補正予算案となる。規模と中身に注目したいが、ぜひとも農林水産業者や中小零細企業や地方経済に救済の手が届く補正予算案であって欲しい。この国では、官僚が「総合的な対策」と言った場合、「総合的」の意味は「総花的」の意味となり、書面の字面で総花的な項目が縷々書き連ねられて、実質的には官僚が自己の利権分野(特会事業)にカネを撒いて浪費する「対策」に化ける。そして、この景気対策が、大企業やゼネコンや銀行証券の利益補填にならないよう監視する必要がある。経団連とハゲタカも虎視眈々と狙っている。それにしても、「景気対策のために補正予算」などという言葉を聞くのは何年ぶりのことだろうか。竹中平蔵が閣内に陣取る小泉政権の新自由主義時代には考えられなかった政策論である。
これから、朝日新聞とテレビ朝日を筆頭とするマスコミが、猛然と「バラマキ批判」の論陣を張って筆鋒と舌鋒をふるうだろう。目に見えるようだ。早速、昨夜(8/4)の「報道ステーション」では、竹中平蔵の総務相時代の秘書官で、三田の私学に天下りした脱藩官僚の新自由主義者が、「90年代に逆戻りする経済政策だ」と映像で批判していた。これから何度もこの男の顔を見ることになるのだろう。3年前、私は『
改革ファシズムの脅迫言説装置としての「日本の借金770兆円」』という記事を書いた。現在でも基本的にこの主張と立場の上にいる。3年経って、国の借金は850兆円という数字に膨らんでいるが、この財政赤字論が国民への社会保障給付を削減するための脅迫装置であり、「小さな政府」を正当化する新自由主義のトリックであるとする見方は変わらない。政府と新自由主義者は、財政赤字の原因を国民の責任に転嫁している。国民が作った借金だから国民の自己責任で返済せよと言い、歳入不足だから社会保障削減を受け入れろと迫っている。
だが、それは違う。歳入不足の問題を見ても、政府は税収が足りないと言いながら、空前の利益を上げている企業に対して法人税を減税し、いわば意図的人為的に歳入不足を作り出している。企業(経団連)は、法人税率が上がれば安い海外に出ると言って脅すが、この脅迫には根拠がない。海外に出て同じ品質の製品を同じ労働コストで作れる保証は何もなく、実際には
MADE IN JAPAN
の品質とブランドだから海外市場で競争力を持って売れるというのが真実だ。M&Aを規制して、過剰で無意味な自己資本(内部留保)を持つ必要をなくさせ、利益を国庫に納入させればいい。そもそも利益は国民である企業の労働者が産み出したもので、国民が国民の社会保障と公共福祉のために政府に収めるのである。これに関連して気になるのは、何年か前から
共産党などが言っていた大銀行の法人税免税措置で、この特権制度は現在でも続いているのだろうか。2006年の実績でメガバンク6行で3兆円の利益を上げながら、1円の法人税も払ってない。8900億円(税率30%)を免税しながら財務省は歳入不足を言う。
それと、最近は誰も言わなくなったが、予算の硬直的配分の見直しの問題がある。この問題も10年ほど前から言われ続け、テレビに出てきた政治家たちは、異口同音に「官邸主導で」「政治主導で」改善すると言いながら、何度内閣が変わっても、12月に予算が出てくるときは省庁別のシェアが微動だにしない。850兆円の財政赤字だと大声で喚きながら、省庁別の取り分は固定させたままを続けている。否、予算配分が見直されるときは、厚生労働省の社会保障予算が削減されている。防衛省は単年度600億円の水増し請求の贅肉を付けながら、その支出は聖域化されて削減の対象にもならず、次から次へと高額な新型兵器を購入し続けている。国交省の道路中期事業計画59兆円はそのまま通る。国の予算が、官僚の贅沢と放蕩のために使われる仕組みになっていて、国民のために使われる前提になっていないのである。古代中国の王朝と同じだ。借金が増え、財政赤字になったのは、官僚が浪費と散財を続けてきたからであり、浪費と散財の機構を増殖しているからである。借金財政の責任は国民ではなく官僚機構にある。
政府の財政出動や公共投資は、私の記憶では、90年代の前半から波及効果が出なくなった。バブル崩壊後の経済不況に襲われたとき、細川内閣から村山内閣にかけての時期だったと思うが、かなり大型の財政出動で景気対策を行ったことがある。NEC会長で経団連副会長だった
関本忠弘が音頭を取っていた。関本忠弘の思想は完全なケインズ主義で、財政出動=景気回復を確信し、国民経済と日本政府を純粋に信じていた。関本忠弘が経団連で指導的地位を保っていれば、そして
梶山静六が長生きしていれば、もっと
リチャード・クーあたりが重用されて、これほど極端な新自由主義(慶応路線)が政財界に横溢することはなかったかも知れない。その頃から年度予算とは別に大型の補正予算が編成されるのが当然になり、赤字国債の発行が乱発され、それでも景気は本格的に回復せず、税収が伸び悩んで財政赤字がどんどん膨らんで行った。新自由主義の「小さな政府」が国民の支持を受ける現実的基礎が出来上がって行った。1990年代後半のことであり、そこから金融危機があり、護送船団方式批判があり、新自由主義が政策の実権を握って金融ビッグバンが始まる。
私は、それを「浪費と散財を維持増殖する機構」と呼ぶが、その税金を飲み込むブラックホールのような特別会計の官僚機構というのは、1990年代前半の関本忠弘的なケインズ型財政出動を原資にして、言わば
本源的蓄積として構築されたのではないかと疑っている。例えば、農業基盤整備、道路整備、港湾整備、空港整備。それらへの膨大な公共投資。それまでの日本経済では、ケインズ的な公共投資=景気刺激=景気回復=成長=歳入増の公式は生きていて有効だった。単純化して言えば、ケインズ的な公共事業・景気刺激策が実需を生んで波及効果を達成するためには、倫理的に国民に奉仕する実直な官僚の存在が必須条件であり、経済倫理と政策倫理を持った官僚(人間)が制度と予算を動かさないといけないのである。システムを動かす人間の精神が退廃して、内面から倫理が喪失されてしまえば、どれほど立派なシステムがあっても有効には機能しない。
大塚久雄の社会科学(ウェーバー論)の意味はまさにここにある。そしてまた、その過剰で無駄な財政支出を無理やり続けさせた米国の構造改革要求がある。あの頃のUSTRの代表はウィリアムスだったか。それともバシェフスキーだったか。
消費税増税論議をまさに逆手に取って、特別会計の洗い直しと借金財政の分析と検証をやらなくてはいけない。850兆円の赤字にホールドアップするのではなく、思考停止するのではなく、中身を検証して返済解消の可能性を論理的に導出し、成長モデルと財政再建の収支計画を描かなくてはいけない。そのためには、まず借金に対する資産を正確に棚卸ししてバランスシートを組む必要がある。日本が保有する米国債の金額規模を明らかにする必要がある。